開く
すっかり秋らしくなりました。
わたしは、新しいことを始めました。
また一人、息子が一人暮らしを始めることになりました。
大好きだったテーブルがもらわれていきました。
長年乗っていた車も手放すことになりそうです。
たくさんの物事が動いています。
私も変化しているように思います。
先日、「頑固でもいい」という記事を書きました。
その後、本の編集に関わっている友人に話を聞いていただいて
また、自分のこだわりを棄てそうになっていたことに気づかされました。
売れるものを、売れるようにしてくれる。
そこに飛びつきそうな自分がいたのでした。
若い頃ならともかく、もう、自分の好きなようにしたいな。
そんな声が自分の中から生まれてきました。
私がこだわって買ったものたちは、必ず自分にとって素敵な縁を運んでくれています。
自分に正直であることがどれだけ大きな幸せに繋がるかわかってきました(遅い)。
そしてまた、私はどうやら「頑固」ではないらしいということも(笑)
私は常に選ぼうとしています。「常識」か「そうでない道」かを。
けれど、多くの人たちは「常識の道こそが最善である」と信じて疑いません。
これを頑固と言わないのが不思議です。
子ども達が不登校になった時、私は、学校に「行っても行かなくてもいい」と思いました。けれど、世間の人たちは「学校に行くべきである」という頑固さを私たちに押し付けて、「決められるのは困る」と受け入れられない私に対して「頑固」というレッテルを貼りました。
常に、自分たちの居心地のいい居場所を死守しておきながら、それ以外の人たちを「認めてやっていい」と思うのが、今のこの日本社会における「寛容」です。
自分自身が「世間の規範に当てはまっている」という安心感を持っているからこそ「寛容」でいられるんですよね。
でも、隣の人が、世間の規範と違うことをしている、となると途端に怯えてしまい、自分の正しさが揺らぐからかどうなのかわからないけれど、「あなたはおかしい」と言い出し始めます。家族の中でも同じです。そこに「寛容さ」はありません。
自分が、相手にとっての「異質なもの」になりたくないからです。
自分と同じ価値観の人とだけ一緒にいたい。それだけのために、異質なものを「おかしい」といって退けてしまいます。
私は常に「どちらでもいい」のです。だけど、選びたいのです。
選べない状態を「寛容」と言ってほしくないのです。
わたしは開いていきたい。だけど、世間は閉じていきたい。
開こうとすると抵抗に遭うのです。
こんな考え方もあるよ、こういうのもいいんだよ、と示すことが
ある種の人たちには「決して受け入れられない」らしい。
しかも、「あなたは私のことをわかってくれない」とまで言われることがあります。
だったら世間に出なければいいのに。自分の閉じた世界で生きて行けばいいのに。
閉じた世界に一緒に入れと言われるのは、まっぴらごめんです。
ひとりでは心細いから、閉じた世界に引き入れようとする、それが学校や村社会に多く見られる現象です。
どんなにおかしな集団でも、おかしな考え方でも。
「閉じた世界を共有する人たちを閉じ込めておけば安心」なんですね。
怖がる人の気持ちをわかってあげても、何もできません。
恐れで攻撃されても「痛いわね、やり返していいかしら?」と私は思います。
開きすぎて傷つくことが多かった人生です。
それでも、わたしは、閉じることを選ばなかった。
これからも、開いていこうと思います。