自分の人生
自分の顔だけで勝負すること。
それは、結婚生活ではできなかったこと。
NHKの集金の人は、何度も「世帯主はいらっしゃいますか?」と聞いた。
何度も「私がそうだけど」と言っても最後まで聞いていた。
それが当たり前の国で、私は、自分の名前で家や車を動かすことにした。
有名人でもなければ、セレブでもない。
ただのひとりの女性だけど、商談の場に自分一人で出向くことが普通になったのは、自分でも驚く時がある。
誰にも頼れない。誰の責任にもできない。
誰を信頼し、どうするかも自分で決める。
息子が悩んでいた。
私は、最後に言った。「あなたの人生を誰も代わってあげられない」と。
私はその姿を見せてきたし、これからもそうするだろうと思う。
離婚しなければ得られた幸せもあっただろう。
だけど、生活を自分で創っていく楽しみはなかった。
常に「誰かの思惑」と「自分の好み」を天秤にかけ、我慢しなければと思っていた。
今は、大きなものを動かしているので、ちっともゆっくりできないし、旅行一つしていない。それでも、今が好きだ。
先日、ダイニングテーブルが売れて、とても感じの良いご夫婦にもらわれていった。
その時の心の中ったら。誰にも見せられないぐらいだった。
守られていて、幸せで、ゆったり暮らしている様子が「見ればわかるよ」というぐらいの雰囲気が「わたしにはないもの」を際立たせた。
けれど、私が望んだのは、違う幸せで、今日も大型ゴミに出すために、メタルラックを解体したり、次男と二人でせっせと階下に運ぶことが幸せなのだった。次男と二人で食べるたこ焼きとノンアルコールビールの美味しさは、私だけのものなのだ。
誰もが「自分を幸せにする」ことを優先すればいいと思う。
私が、誰のためにもならないようなブログを書き続けているのも、自分の心の安定が世界の幸せに少しだけ貢献すると思うからであり、商売したいからじゃない。
悩みは減らないけれど、悩みの質は変わったし、悩む時間も内容も変わった。
起業している人を羨むこともなくなった。
どんな仕事にも自分の役割があって、どこで自分を表現するかの違いだけだとわかった。
家族がそろっていても、悲しい人がひとりでもいれば、それは「家族万歳」ではないと思うし、夫婦愛だけが素晴らしいわけではないことも知っている。
愛はどこにでも存在するし、結婚していると見えない自分の心がある。
結婚しているから、たったひとりのパートナーと付き合っているからと安心している人には、その自分の心の奥に何が棲んでいるのかを知ることは難しいと思う。
だって、そんなことが見えたら、自分の安定している基盤が揺らぐじゃない?
共同体としての家族は、男と女の愛とは違うところにあるものね。
居場所としての学校が、勉強や学問と全く関係ないところで機能しているように。
「これに捕まればわたしは大丈夫」という基盤から外れてからが、本番。
自分の人生を生きていくために。