何がWINWINなのか
また、やられてしまった。
今年は、息子たちが学校に行かなくなって以来のトラブルの年のようだ。
しかし、かつての私と違っているのは、自分を責めないことである。
自分を責めずにいると、心は安らかになり、相手のこともよく見えてくる。
相手が追い詰められているのかもしれないと思う。
そしてそれは、私の問題ではない。
人は不思議な生き物だ。
わかって欲しい、気づいてほしい、何かして欲しい。
それが怒りに変わる。
どんな小さなことでも怒りの種にすることができる
私を大切にすることと、相手を大切にすることの両立が問われているような気がしている。
相手の機嫌を取ることは簡単かもしれないが
それは大切にすることとは違うような気がする。
お金を気持ちの代わりに差し出されて、満足されるかもしれないが
本当にそれでいいのだろうかと思うのだ。
本当に欲しいものはお金じゃないと思うから。
余裕がありそうに「見える」ことが、怒りのポイントなのかもしれない。
有名人が攻撃されやすいのも同じことだ。
余裕を見せるために、どれだけの心の葛藤を経て、どれだけの修行をしているかは見えないからね。
震災の時、私がどれだけ心が折れたか、恐怖で震えたか。
だけど、それを子どもの前で見せるわけにはいかなかった。
頼れる大人のパートナーはいなかったし。
だからこそ、笑って、自分自身と子どもたちを和ませるしかないと思ってた。
でも、まさかその状態を逆手にとって批判する人が出てくるとは思わなかった。
人は、どこまでも自分本位でいられるのだ。
きっと、私もそうなんだろう。
誰もが余裕を失った時に、助け合うのではなくて、「あいつはあんなことしてた」と心の中で憎むことを選ぶというのがどういうことなのか、私にはわからない。
だからこそ、お金で解決することがいいとは思えなくなっている。
こんなことが今も日本のどこかで繰り広げられているのかもしれない。だって、これだけ災害があったのだもの。
台風の被害も、どこから飛んできたかわからないもので傷つけられた家もあるだろう。
その「どこから飛んできたのか」を必死で突き止めたくなっている人もいるかもしれない。
そんなどうしようもないことを、責めなくてはならない心が、悲しい。
私はたまに、自分が生まれてくる国を間違えたのかと思う。
それぐらい、「同じように思えない」ことが多すぎる。
家族だから許されるとか、地域で頑張ってるから何を言ってもいいとか・・・
不思議な常識がまかり通っていて、私が思う「まっとうなこと」が通じない。
私には、その絆精神がどう頑張っても理解できないでいる。
だから、人を傷つけてしまうのかもしれないが、そこに配慮しながら一生を終えるつもりもないから、どうすることもできない。
法律を盾にとって文句を言ってくる人が、同じ口で「法律だからってそれでいいと思ってるんですか」とも言う。
何のための法律なんだろう。
相続の時もそうだったな。法律より家族のきずなが優先されるって親も弟も信じ切っていた。
日本は、そうやって法律がすぐにないがしろにされる国なのだ。
こんなにも。
心情や人情でお金がもらえるなら、平等や人権は意味をなさない。
そっか、だから、多くの人たちが政治に無関心でいられる。
いい人でいればいい、波風立たずに生きていれば、悪いようにはされないだろうっていうことね。
法律よりそれが大事、って。
だから、法律が変えられてとんでもないことになっても平気なのかも。
それはともかく。
自分の心に誠実に動くつもりでいる。