「ない」がやってくる
好きなだけゴロゴロしてから起きた。
休みの朝は気持ちがいい。
また少し、家を片づけて、お昼ご飯はオープンサンドイッチを作った。
やらなければならないことを考える前に
やりたいことをする。
それだけで一日が整う。
想像以上に動けたことが嬉しい。
昨日、↓の記事を書いてから、また、発見があった。
幸せは環境で得られるものではない、というよりも、出来事の繰り返しが「環境」と思われているのかもしれない。
明日も夫がいて、ご飯を一緒に食べたり、おしゃべりできるという想像があってはじめて「家族がいて幸せ」となる。
だけど、明日も夫に殴られて、味もわからないご飯をたべなければならないとなると、「家族がいて不幸」になる。
わたしたちは、「家族がいる」というと「幸せに違いない」と思い込む。
そう思っていないと、怖くて結婚なんてできないかもしれない。
だけど、「家族が”ある”」ことだけが幸せなのかどうか、それは疑ってもいいのかもしれない。
誰もが「ない」という状態を「不足」だととらえている。
「停滞」と思われている。本当にそうだろうか?
実は「ない」という状態は、とてもアクティブなことなのだ。
「ない」は一種の「出来事」にすぎない。
次の瞬間には「ある」に変わっているかもしれない。
「ある」から「ない」に変化するもの一瞬だ。
「ない」という出来事を経験している時、どうしても「不幸」「不足」という感情に見舞われてしまう。
それはきっと、生まれてからずっと、何かを獲得することが幸せだと思い込んできたからだと思う。
だけど、「ない」という出来事に意味づけてるのは私で、本当は「ない」という出来事には意味なんてない。
ただそういう出来事が私のところにやってきているのだ。
そこに抵抗するから辛くなる。
家族、お金、友だち、才能・・・これらが「ある」ことが幸せだとみんな思ってる。
それが「やってくるように」と引き寄せの法則を使う。
増えていくことに幸せを感じる。それが「幸せだ」と信じている。
だから、「ない」がやってきた時に慌てることになる。
だけど。私は思うんだよ。
「ない」がやってきた時の対処の仕方にその人の特性や人生が露わになる。
私も、自分の慌て方にやっと気づけた。
「焦るのそこ?」だった。
そこが私の弱点であり、魅力だった。
「ない」を経験した人が魅力的なのは、自分をそこで発見できるからだと思う。
「ある」に傾いた時は、みんな同じようにSNSで「幸せだ」「引き寄せた」と騒ぐだけで、そこに個性はないから。
こんなことをずっと考えていたら
今朝、起きる前に「もうないんだよ」「なくなったんだよ」と私を諭す声が何度も聞こえた。
そっか、もうないんだ、過去はもう終わったんだな~と思いながら目が覚めた。
そうは言っても、急に涙腺が緩む時がある。
思い出の曲が流れ来るだけでダメだ。
でもそれを許そうと思った。
我慢することなく、自分が流されるままに漂っていようと思った。
今日はどっさり果物を買って帰った。
五人家族の時は好きなものを買っても、まずは私以外の家族に食べさせてからじゃないと食べることができなかった。でも、二人になった今では、好きなものを堂々と買うことができる。
小さな暮らしが心地いい。