風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

自己責任信仰

朝方の雨とスマホの警報音。

今年の大雨は尋常じゃない。

みなさま、どうかご無事で。

 

長年抱いていた、宗教的なものに対する違和感が

ようやく自分の中で言葉になりそうです。

それもこれも、日々湧いてきた思いを、ブログで書くことで

忘れなかったことと、読んでくださっているみなさまのおかげだと思っております。

 

私にとっての宗教は「自分だけのモノ」であり「神様対わたし」の、内的な大切な神聖なものでありました。

生きづらい自分の生き方を肯定してくれるものでもありました。

決して私の日常の行動を規定するものではなく、自分と対話するためのツールでありました。

 

ところが、昨今の、神様とつながっていると称する人たちや、感謝教に陥っている人たち、間違った引き寄せの解釈をしている人たちを見ているとどうでしょうか。

 

「私が幸せなのは、私が感謝しているおかげ」「私がパートナーに恵まれたのはこの宗教を勉強したおかげ」のオンパレードです。

 

つまり、「幸せじゃない人は自分からそれを選んでいるだけ。私のように努力すれば幸せになれるのに」という話になります。

 

それって・・・

「俺のように情報を集めて努力すれば金持ちになれるのに、やらないで貧しいなんて、自己責任だよな」

ってのと、同じじゃないですか?

 

いつの間に、信仰は自己責任を他人に押し付けるためのものになってしまったのでしょうか?

 

今のアラフォー世代が今のそのムードを牽引していると思うんですけど

根っこは全部同じですよね。

 

金持ちになれたのは自分が頑張ったから。(ホリエモン界隈)

幸せになれたのは自分が頑張ったから。(引き寄せ界隈)

 

どっちも同じなんです。

 

お前ら幸せになれないのは、お前らのせいだよ。

って言ってるんです。

 

その挙句「私たちが祈ってあげるから、世界が幸せになるんです。あなたも祈りませんか?」ときたもんだ。

 

私は知ってるんです。

感謝教、引き寄せ教に吸い寄せられた人たちは、それ以外のことを他人に依存してるってこと。

なのに、そのことは一切言わない。

 

親にお金があり、地位があり、教育を受けられるだけの環境があって東大に行った人が「俺頑張ったから」としか言わないように

「幸せになった結果」だけを伝えて「あなたが幸せじゃないのは、感謝の心がないからです」と言う。

 

そしてその人が見ている「他人の今」ってものすごく狭いんですよね。

「自分が幸せな一瞬の今」と「他人が幸せでない一瞬の今」がたまたま重なっただけ。

それって、10年後には逆転してる可能性もあります。

今日明日にでも変わるかもしれない。

 

それがまったく考慮されていないのが、今のアラフォーの宗教観なんだな。

 

そして、この社会が肯定している「ただの制度」を

素直に肯定しちゃってることも、この自己責任信仰の特徴です。

 

わたし、びっくりしたのね。

「怠け者であるという罪責感を自分が許すことができれば、働いている人に感謝できるはずだ」という言葉を聞いた時。

え?え?え?ですよ。

じゃあ、働いていることに罪責感を感じることができれば、働いていない人に感謝できるってことだよね?働いていることに罪責感を感じないってことに疑問はないのかい?

 

働くこと=いいことと刷り込まれているから

怠け者は罪責感を感じて当然で、働いている人は何も感じなくて当然と思ってる。

こういう人は、不登校に対しても同じで

不登校を肯定しているように見えて、実は、「学校へ行くことは罪責感を感じなくて済む行動」ってわかってるんだよね。

 

そして、罪責感を感じない行動をしている人間のほうに寄っていて

「どうして会社に行く、仕事をする、家事をする、学校へ行く人間は、罪責感を感じずに楽に生きているのか」ということに疑問も持たない。考えもしない。

「祈っているだけで、夫が家事を”手伝って”くれました」との報告を喜々としてあげたりするのも、「男は家事を主体となってしなくていい」という価値観の上塗りでしかないんですけど、そういうその、ずさんさっていうのか、なんていうのか、もう、あの、絶句です。

 

これを伝わるように書きたいんだけど。

「そうじゃないだろ感」でいっぱいの私です。。。。。

 

けど、そうだよな、インドにしろイスラム圏にしろ、男女差別もカーストも変わってない。仏教とイスラム教の国なのに。宗教は制度を強固にするだけなんだろうか。

どんなに誰が不自由な思いをし、傷つけられたとしても。

 

今の日本もそっちに向いてる気がして、モヤモヤが止まらないのです。

 

お金持ちなのも、幸せなのも、神様に守ってもらえるのも

「自分がすごいから!」「人の幸せを祈ってるから!(いい人な私)」「赦せる私だから!」

あなたも頑張りなよ、私と同じようにしたらいいよ、勉強したら幸せになれるよ、・・・

 

だからかな、水害があっても「そんなところに住むほうが悪い」って言う人がテレビで有名になってるの。

 

そうじゃない、そうじゃないんだ!

 

そういう思考になるために神様を使うんじゃないんだ!

 

このことをもう少しうまくまとめられたら

noteに書こうと思います。

今日はつぶやきだけで。

 

宗教って限界あるのかな、やっぱり。そこんとこ。

「赦せないものがある」人を餌にして、「赦したら楽になるよ」と上から目線。

別にいいじゃんね、許せなくて。赦せなくて。愛せなくて。

楽になれない時が大事。楽になれない自分を知るって大事。

しんどいね~って自分に言ってあげられるのは、無理やり楽になろうとしない時だけなの、赦そうとしない時だけなの。

その過程が何より大事なのにな。「この先に、赦せるようになる、愛せるようになる」ってさ、イランお世話なのよ。勝手に結論持ってこないで。

そうやって、人生を見通せるような気になってる人の自己責任論、半端ないよね。

 

なんでわかんないかなあ。。。