きっと変わってくる
今日は雨模様。
また水害の地域が出ている模様。
私たちの税金を、そういうところに使ってほしいと本気で思う
今日この頃です。
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わたしはなぜかキリスト教のまわりをうろうろしています。
ほぼ児童書の影響だと睨んでいるのですが、定かではありません。
サウンドオブミュージックを見ては修道女に憧れ
日本に根付いている儒教的なものから逃れたい気持ちもあったかもしれませんが
とにかく、キリスト教的なものが私は好きでした。
大学もなぜかキリスト教系(目指してたのは仏教系だったのに)に行くことになったのも何かの縁かもしれません。
けれど、先日、そのキリスト教が基底にある教え(奇跡のコース)を学ぼうと思って
あるところに足を踏み入れたところ
強烈な違和感を感じて、「おっと、ごめんなさいよ、間違いましたよ」と一瞬で退出しました。
自分の中のセンサーが「これはまずい」と危険信号を発したからです。
わたしは、最近自分の中のセンサーをとても大切にしていて
以前であれば「私が間違っているのかな?」とまずは自分を疑ってみたのですが
それをバッサリやめて、素直にセンサーに従うことにしております。
で。
キリスト教の「ちょっと違うよ」的な部分をわたしなりに
考えてみました。
そもそも、キリスト教を学んでもいないので、突っ込まれたら爆発してしまうかもしれないぐらいの記事ですが、何かの参考になればと思います。
「あなたの罪は赦されている」「あなたは愛されている」
この二つの言葉がキーワードです。
奇跡のコースでこの言葉に出会って感動したという話はよく聞きます。
わたしはすでに、依存症の自助グループ等でこういう思想は知っていましたので
いまさら感動はしませんでした。
ただ、一瞬だけ、その言葉を、「私だけ」に向けて言われた時は、さすがに鳥肌が立ちました。耳から入る言葉ってのは強烈だなと思ったものです。
だけど、私にはもうそこに依存する心はありませんでした。
鳥肌が立つほどの一瞬の幸せを味わってしまったら、もし心が本当に弱っていたら
そこに行ってしまうだろうというのは、わかります。
なぜなら、その言葉は麻薬と同じだからです。
私たちに必要なのは、「たまたまそれを言ってくれた人」を崇め奉ることではなくて、そういうことを、自分で、自分に確実に言えるようになることです。
まあだけど、何か発見があるかもしれないと思い、その人の周辺をしばらく覗いてみることにして、勉強会があるというので、一回だけと思って参加してみました。
私のイメージする勉強会というのは、奇跡のコースであればテキストを元にしてそれを読み解くものだと思っていたのですが、
参加してみると、そこはまるで単なる「告解の場」になっていました。わたしは、相談しに来たわけじゃない。いったいなんなんだここは?
混乱してその場が終わり、次をどうしたらいいのかをしばらく悩みました。
(強烈な違和感だったわけですが!だから抜けましたけど!)
そんな時に、べてるの家の問題が起きました。
有名な場所なので、色々な人が、色々なことを書いてTwitterやnoteにアップしてくださっていて、読んでいるうちに「これはあれと同じだ。キリスト教特有のあれじゃないのか」と思ったのです。
つまり「罪」の考え方です。
「罪を赦す」ためには「罪」がないといけませんよね。
「あなたは罪責感を持っている、罪悪感を持っている、それを赦そう」
私が何度も書いている「赦す」の訳がおかしいんじゃないかって言ってるそれです。
じゃあ「罪」ってなんだよ、という話です。
奇跡のコースを教えている人は、どうやら、集めた人の「罪」を「わたしが」赦そう、としているようだ、私にはそう見えました。
自分を神の立場に置いて、迷える子羊を集めて。
あーそうなのね、わたしは子羊扱いなのね、ごめんね、私は羊じゃなくてオオカミなの!だったわけです。
教会で行われている懺悔室のようなのを、集団でやってる感じ。
だめじゃん。あれは一対一でやることに意味があるのに!
先生が無理やり教室で「ほらお前ら、白状して見ろ、許してやっから、俺はお前らを愛してっから」みたいなね。
昔のヤンキーならそこで泣きだして「せんせ~~~」って抱き着くとこ(笑)
わたしは残念ながら昔も今もそういうヤンキー風情に憧れてはいませんし
そういう心理的状況に陥ることもありません。
誰やねんお前は、どの立ち位置で言うとんねん!って心の中で突っ込みます。
「人を集めて許してあげる教」というのは、私にとっては古典であり、精神疾患や依存症の界隈をさまよって歩いてきた私にとって、それはもう時代遅れです。
人は自らで立ち上がる。キリストにすがる大衆、ではない。蜘蛛の糸いらない。
「あなたは赦されています」と「特定の人」に言われて感動すると
その「特定の人」に何度もその言葉を伝えてもらいたがる。
それはもう依存です。
でも、依存された人が本当はそこに気づく必要がある。
「いつまで私の側にいるつもりですか?」と。
長く生きていると、集団になると「先生のお気に入り」になりたい人が必ず一人はいるのが目につきます。それはもう、どこにでもいて、パン教室にさえいるんです。
初めての人がいくと「引く」レベルになります。
主(ヌシ)になりたがり、先生よりも先生を理解している風になっていきます。
キリストもそうだったんだろうなってなんとなく思いますよね。
弟子たちが一番争いをしたりして。
でも、宗教はそれに対する解決策を大昔から今まで全く手に入れていない。
なんでだろ~~~
神の前で人は平等であるはずなのに、神の言葉を伝える人間と、そうでない人間の間は平等でないんだなあ、それを神の言葉を伝える人が作ってる闇。
(神の言葉というのは、神道もそうだし、何か天使の声が~な人も同じだしね)
ただ、この国は昔とは違う。
こういうことを書いてもわかってくれる人がいると信じられるようになったという点で、全然違います。
きっと変わってくる。
本当の意味での宗教の時代が来ると私は信じています。
カルトやマルチや依存をさせる男主導のものじゃなくてね。