風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

何が安心なんだろう

久しぶりに息子と会ってきた。

給付金でスマホを新しくするとのこと。

一緒に暮らしていた時より、自分から色々と話してくれるようになった気がする。

 

最近、自分の心の中に、他人に対して「ほっとする人」「ほっとしない人」という区別があることに気が付いた。

習い事を始める時には、おそらくこれが影響する。

 

ほっとする先生でないと続かないのだ。

 

ほっとしない人に当たってしまった場合

私はちょっと混乱する。

 

一番悪い癖で、まず自分に原因を探し、次に状況を分析してしまう。

「ほっとしないからやめた」で、いいのに。

 

とにもかくにも、習い事にしろ何にしろ

上に立つ人間を見ていると

私にとって「ほっとしない(安心できない)人」がけっこういて

居場所になり得ないのが悲しいところだ。

 

えこひいきする人

自分が「与える人」だと勘違いしてる人

等々、自分と、そこに来た人の間に明確な線を引く人は苦手だ。

 

先日、京大の先生のYouTubeを見た(講義)。

普段がどういう人かわからないけど、講義を聞いていてちっとも偉そうじゃないことに好感を持った。

前も書いたかもしれないけれど、本当に自信があり、研究することがただ好きで

そのことを話すのが大好きで、みなと分かち合いたいと思っている頭のいい人というのは

偉そうにする必要がないのだろう。

 

「人を集める人間になったのだから、人前では偉く見せなくちゃ」という生半可な先生風情(だから安心できない)が大量生産されている今

そうではない、誠実な講義を受けることができるのは幸せなことだと思った。

 

昔、働いていた職場でも、やたら偉そうにするのは

学歴コンプレックスからの、「わたし、リーダーだから」とか

「若いけどおれ、シェフだから」とか

周囲に「舐められないコト」だけを意識した人たちだった。

 

人は、偉そうな態度にひれ伏すわけではないし

知ったかぶりやパワハラをされてまで尊敬はしない。

そして、そんなことをしなくても、人は人を見極めるし

無理して先生風情を醸し出さなくたって

先生でいられるということを

そういう人たちは知らないで生きてきたのかもしれない。

 

自分のイメージにある「先生像」「リーダー像」を演じているんだろうなと思うけれど

それはすでに「あの頃先生にいじめられた自分」「リーダーに軽く扱われた自分」を払しょくして、同じことをやろうとしているだけで、残念なだけなのにな、と思って見ている。

 

自分を愛する、自分に自信を持つ、ということの大切さは

それがあれば、偉そうにしなくてもいいということだし

どこにいても「あの人何か違うよね」と思われることでもある。

 

人生の後半に必要なのは、それだけじゃないかな、と私は思ってる。

 

私が安心できない、つまり、本当に自分に自信がない人たちほど

「わたしはこんなに優しいです」「こんなに素敵です」と何度も何度も言ってくる。

パワハラセクハラぎりぎりのことをしていた若い女性も、「わたしっていい人だから」と言ってた。ブログで善意に溢れた文章を書いてるのもそういう人が多いよ。

意地悪な部分を絶対に見せないようにしてる。

受け入れてあげれたらいいんだけど、ね。

そういうとこ、私は本当に優しくないです。

 

たくさんの本を読んで、表現の表面じゃなく、奥底に流れるものをひたすら読み取る訓練をしてきたから、人間に対してもどうしてもそういう風に見てしまう。

 

それが私の守りでもあって、あんまり褒められたことではないのかもしれないけれど

でももう、無理して合わない人に合わせる必要もないかと。

 

安心する場所を見つけたいよね。

 

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自然は安心。