何が安心なんだろう
久しぶりに息子と会ってきた。
給付金でスマホを新しくするとのこと。
一緒に暮らしていた時より、自分から色々と話してくれるようになった気がする。
最近、自分の心の中に、他人に対して「ほっとする人」「ほっとしない人」という区別があることに気が付いた。
習い事を始める時には、おそらくこれが影響する。
ほっとする先生でないと続かないのだ。
ほっとしない人に当たってしまった場合
私はちょっと混乱する。
一番悪い癖で、まず自分に原因を探し、次に状況を分析してしまう。
「ほっとしないからやめた」で、いいのに。
とにもかくにも、習い事にしろ何にしろ
上に立つ人間を見ていると
私にとって「ほっとしない(安心できない)人」がけっこういて
居場所になり得ないのが悲しいところだ。
えこひいきする人
自分が「与える人」だと勘違いしてる人
等々、自分と、そこに来た人の間に明確な線を引く人は苦手だ。
先日、京大の先生のYouTubeを見た(講義)。
普段がどういう人かわからないけど、講義を聞いていてちっとも偉そうじゃないことに好感を持った。
前も書いたかもしれないけれど、本当に自信があり、研究することがただ好きで
そのことを話すのが大好きで、みなと分かち合いたいと思っている頭のいい人というのは
偉そうにする必要がないのだろう。
「人を集める人間になったのだから、人前では偉く見せなくちゃ」という生半可な先生風情(だから安心できない)が大量生産されている今
そうではない、誠実な講義を受けることができるのは幸せなことだと思った。
昔、働いていた職場でも、やたら偉そうにするのは
学歴コンプレックスからの、「わたし、リーダーだから」とか
「若いけどおれ、シェフだから」とか
周囲に「舐められないコト」だけを意識した人たちだった。
人は、偉そうな態度にひれ伏すわけではないし
知ったかぶりやパワハラをされてまで尊敬はしない。
そして、そんなことをしなくても、人は人を見極めるし
無理して先生風情を醸し出さなくたって
先生でいられるということを
そういう人たちは知らないで生きてきたのかもしれない。
自分のイメージにある「先生像」「リーダー像」を演じているんだろうなと思うけれど
それはすでに「あの頃先生にいじめられた自分」「リーダーに軽く扱われた自分」を払しょくして、同じことをやろうとしているだけで、残念なだけなのにな、と思って見ている。
自分を愛する、自分に自信を持つ、ということの大切さは
それがあれば、偉そうにしなくてもいいということだし
どこにいても「あの人何か違うよね」と思われることでもある。
人生の後半に必要なのは、それだけじゃないかな、と私は思ってる。
私が安心できない、つまり、本当に自分に自信がない人たちほど
「わたしはこんなに優しいです」「こんなに素敵です」と何度も何度も言ってくる。
パワハラセクハラぎりぎりのことをしていた若い女性も、「わたしっていい人だから」と言ってた。ブログで善意に溢れた文章を書いてるのもそういう人が多いよ。
意地悪な部分を絶対に見せないようにしてる。
受け入れてあげれたらいいんだけど、ね。
そういうとこ、私は本当に優しくないです。
たくさんの本を読んで、表現の表面じゃなく、奥底に流れるものをひたすら読み取る訓練をしてきたから、人間に対してもどうしてもそういう風に見てしまう。
それが私の守りでもあって、あんまり褒められたことではないのかもしれないけれど
でももう、無理して合わない人に合わせる必要もないかと。
安心する場所を見つけたいよね。
自然は安心。