依存とか執着とか(わたしの考えだよ!)
クリスマスが終わって静かな街になりました。
昨日は、クリスマスマーケットに行ってみたらラッシュの電車のようでした!
最後だったしね~恋人たちも友達同士もいっぱいで、ひとりの私はその間をすいすいと抜けてお店を眺めておりました。
さて。
私の人生、穏やかな時がないのでありますが
そのため(そのため?w)依存という言葉と共に歩んできました。
依存という言葉が使われ始めた頃からかもしれない。
ここ十年ほど、依存という言葉を知っているだけで、なんとなく人を裁ける的なムード漂っていてちょっとやだなあって思ってます。
私的観察によると、父親の呪縛の全くない男はいないし、母親の呪いから逃れている女の子なんて皆無です。
他人のことは誰もが良く見えるもの。
だからって、自分を差し置いて他人の依存を語る趣味は私にはないのです。
あの人もこの人も親を背負ってるなあと思うだけ。
つまり、親に依存してない人もいないし、執着してない人もいない。
いわば「依存との付き合い方」だったり「執着の度合い」で人生が楽しいとか楽しくないとかあるわけで。
それ自身がゼロの人なんて生きてないんです。お釈迦様でもあるまいし。
でね。
わたしは、不登校支援なるものをやってるわけだけど
これ、完全に趣味だから。
私が「支援やってます」と言うだけで「他人ばっかり目を向けないで」って言う人が必ずいるのね。それって、その人の中に「支援をする人は、他人の不幸にばかり目が行ってて、自分を幸せにしていない」という定義があるだけなの。
それはその人の頭の中にある世界で、私の世界ではないんですよね。
わたしがそもそも、親の会を立ち上げたりしたのは
ひとりで寂しかったからだし
友達を作るのに、いちいち会を探すのしんどいし、できあがった場所で友達作るより、自分の場に入れたほうが仲良くなれる。
待っても誰も何もしてくれないよ?自分で自分を救うしかないやん?
そのための、出会いづくりをしてるだけなんだけどな。
私の趣味は、人と会うこと、人としゃべること。
子育てで孤立していた私は、外に友達を作ろうとしたけれど
価値観の合う人に出会えなかったわけ。
それで、自分で会を作ってみた。
そしたら、友だちができたんだよね。
誰かを救う趣味はない。
私の作ったところに来て、話をしたら、「楽になりました」って言われるだけで
お金ももらわないし、救われない人に失望することもなかったよ。
誤解されるのは慣れてるんだけど。
みんなの普通とわたしの普通は違うんだなと思う、しみじみ。
書くのが好きだから書いてるし、誰かを勇気づけるつもりもなくて
ただ読み返した時に自分が救われてる(笑)
らいぶらりー作りたいのも、大好きな本に囲まれて、そこに大好きな人が来てくれたら最高じゃん?誰を救うの?私だよ!!!
「救ってあげてる」人ほど、私のことを「人を救ってる風」に見えるのかもしれないね。
がんばれ!
職場でも、わたしほど冷たい人はいないんじゃないかな。みんな優しいのよ。
わたしは自分の仕事と他人の仕事をはっきりわけるから、手伝えないことは引き受けないけれど、それでもまあ、うまくまわってるわね。
自分の力以上のことは絶対にやらないし、やるって言わないもの。
自分が持っている知識と知恵を分けてるだけで、なにひとつ苦労していない。
不登校カフェもカギ開けてしゃべってるだけだからなあ。
それでも、ありがとうって言ってもらえる瞬間があって、生きてきて良かったと思う。それだけ。
人を救いたい気持ちは、母を救えなかった絶望で終わった。
人は人なんだなあって思ったし。わたしはわたしで生きて行こうって思った。
自己中だし、わがままだし、人を切るくせに切られると痛くて泣く。身勝手だね。
そういう自分と生きていくって決めて、もっともっと楽しみたいと思ってるよ~。
まあ、勘違いしたい人はさせておくのがよろしかろうと思うけれども
人を救う趣味はないのでよろしく。
自立しろやって子どもも突き放してるしな(笑)