ゴミ捨て場からの脱却なるか
病んだ家族の中にはゴミ捨て場になる人がいる。
— 親子の役割逆転 (@oyakonoyakuwari) 2020年8月17日
マイナスの感情を「いつも」吐き捨てられる犠牲者である。
家族の中で、その子の役割が「ゴミ捨て場」と決まっているのである。
恐ろしいのは、その子を犠牲にして生活しているということに皆が気がついていない「ふり」をしているということである。
家族のごみ捨て場と決められた子が、役割を十分に果たさなければ、両親はその子を軽蔑する。両親ばかりでなく他の家族もその「良い子」を馬鹿にする。
— 親子の役割逆転 (@oyakonoyakuwari) 2020年8月17日
良いゴミ捨て場でないと軽蔑される。「良い子」の方もそれを受け入れている。
Twitterでさきほど見つけて、
まんまこれやん、と思った朝です。
私が私の感情を露わにした時、親も兄妹もあきれたような顔で私を見たものです。
そして
家族のゴミ捨て場となった犠牲者の怒りは、本人が気が付かないうちにもの凄い怒りとなって無意識に溜め込まれている。
— 親子の役割逆転 (@oyakonoyakuwari) 2020年5月30日
それは不公平という怒りである。自分が不公平に扱われたという怒りはものすごいが、一切外に表現されないで日々蓄積されてきた。
わたしは、身体の中に怒りがいっぱいあると指摘されることが何度もあったのですが
理由もわからず、意識もできず、どうしたらいいのかわかりませんでした。
その理由がこれだったのですね。
私の母親も、結局は親子逆転のなかを生きてきた人だったのですが
幼児期からあまりにも私が母の期待に応えすぎたこともあって
自分の問題に気づけないまま、今は、弟たちに面倒を見てもらっているはずです。
私自身も、痛いですが、自分の子育てを振り返ると
母親失格だったなと思いますし、今も自分自身が生きづらいことは変わりません。
子ども達をなんとか自分の手元から離したことだけが「よくやった」と思うだけで。
子育てや自分の鬱状態の中で、私は、子ども達が「思い通りになってくれなかったからこそ」自分に向き合ってきて、なんとかゴミ箱からの脱却を試みて生きてきたつもりです。
だからこそ、私自身が、上手ではなかったかもしれないけれど、歩いてきた道筋から得たものを、同じように悩んでいる人に伝えることができれば幸いです。
子どもの頃の癖は抜けないもので
どうしても「誰かに拘束されること」を期待してしまう自分もいるし
未熟な甘え方しかできないことも知っています。
けど、それでいいんじゃないかなって最近は思うんですよ。
趣味としての「拘束癖」ならあってもいいし
どうせ孤独を感じる生き方しかできないのなら、
ひとりで生きるのもありだと。
若い頃は、無理してでも、「親子逆転していない家で育った人」のようになりたかったし、自分を変えれば少しでも「普通の人」になれるという期待を自分に課していました。
それこそが、完ぺき主義のなせる業だったんですけどね。
悔しいじゃないですか。成育歴がそうだからって、一生苦しんで当然だと思われちゃうの。
なので、わたしは、自分の捻くれた部分を認めて、OKを出していくことにしました。
そして、逆にそれを楽しんでしまえばいいのでは?とか
それを生かして「有料のゴミ箱になればいいのでは?」みたいな風に
発想を変えることにしたのです。
完璧主義だからダメなんだとか、自分自身のやりたいこともわからないのかとか、感情を出さないからしんどいんだろうとか、
もう言われっぱなしなの、嫌になったんです。
知らんがな、勝手にそうなってるんやもん。
あなた達はそういう育てられ方をされなくてよかったよね、って。
誰かの幸せの基準に合わせなくていいやん。
しんどいなりに生き延びれたのだし、「普通」を目指す必要なんてない。
わけがわからないままの幼少期とは違って、
これから自分のペースで得られなかった愛について考えていけばいい。
親子逆転されてきたからかどうかわからないけれど
他人の期待がどこにあるか、すぐにわかるんですよ。
どうしても、それに応えるか、反発するかの二者択一になってしまう。
私からみれば、ほとんどの人が、他人に期待しながら生きている。
なのに「他人に期待するからしんどくなるんだよ」とどこからの受け売りで言ってしまってる。期待してない人なんて見たことないです。
依存も期待もあっての人間関係。
ゴミ箱の自覚がない時は、ゴミ箱を探して寄ってくる人に言われっぱなしになるけど
もう、そういう人たちの「あなたには、かわいそうな人でいてほしい」から脱却することを決めれば違う風景が見れますよ。
ちょっと踏ん張りと寂しさを越えないといけないけどね。
ふぁいとです。