認めたくない人を認める
こんばんは。
3月ももう終わってしまいますね。
みなさん、どんな年度末をお過ごしでしょうか。
仕事に向かう電車のホームには、春休みの親子がいっぱいで「懐かしいな」とふと思ったりします。
さて。
私の年代は、「個性を認め合うこと」が良しとされる時代に育ちました。
金八先生のドラマが始まり、「どんな子どもでもいい子なんだ」みたいな熱血先生がもてはやされた時代です。
人権や自由について、私自身もよく学んだほうだと思います。
だから、母親になって、息子たちの不登校や発達障害に直面しても「個性を認める」という考え方を採用しようとしましたし、私自身はそうするのが普通だと思いました。
ただ、それが「頭の中の理解」で止まっていると、親として苦しかったかなと思うんです。
「個性を認めることがいいこと」「自分の個性的な部分を受け入れることが素晴らしいこと」「人と違うことを隠さないのがいいこと」・・・とやっぱりどこか「こっちのほうがいいに違いない」という価値観に縛られているのかなあと思うことがあります。
個性を認める、というのは、普通の人にとってみれば、「個性を認めても自分は否定されない社会に住んでいるからできること」なんです。
そこには、自分の強さ、環境に恵まれてきたこと、頭の良さ、等の条件も含まれていると私は思います。
でも、そうでない場合。個性的であるがゆえに、いじめられたり、仕事がうまくいかなかったりする人に対して「普通でなくていいんだよ」というアドバイスは、とても酷なものかもしれない。
そりゃ、あなたはそれで生きていけてるかもしれないけど、私は違うのよ!と。
そう、その「違い」を私たちは「認めること」ができないんです。
「普通じゃなくていいじゃない」という価値観を押し付けていないか、ということです。
普通になりたい、普通でありたい、という気持ちを持っている人のことを受け入れてみませんか。
自分の「理想」(=自分の生きづらさを自覚して立派に生きていく人間がいいという)を子どもに求めていないでしょうか。
世の中にある「立派な障碍者」とか「個性的だけど楽しそうに生きている人」とか、そういう人物像を求めてしまっていないかどうか、です。
たしかにその方が「生きるのは楽だろう」という想像はできます。しかし、そのように見える人たちが、そこに至るまでにどのような精神的な葛藤をしてきたかということは、あまり見えてきませんし、伏せていることがほとんどじゃないかな。
わたしは、自分がうつ病になってみて、職場復帰した時にすごく怖かったのを覚えています。「鬱病になっちゃった人」という視線がぬぐえなかった。
これからも仕事を続けたければ、これはカミングアウトしちゃいけないやつだ、と本能的にわかりました。
どんなに鬱病に対する社会の理解が進んでも、自分から「鬱病になった人です」とは言えないです。
だからこそ、発達障害を受け入れられない当事者の気持ちが私には痛いほどわかるのです。
そういう「認められない心がある」ということを認め受け入れることが、「ひとりひとりの違いを認める」ということなんです。
人権教育や平等、自由という単語を頭で理解してきた私たちは、とかく理想を求めます。自分じゃない誰かに。子どもが不登校になれば「不登校ができるなんてすばらしいじゃないか」と言ってみたりする。そう思ってる自分に酔いたいのか?と私は思うんですけど。
不登校のどこがいいの?子どもにとってみれば、学校に通えるほうがずっといいのにって。現実を知らないで、「きれいごととしての個性を認める発言」というのは、時に当事者を傷つけます。
いつか、自分の個性を受け入れる日が来るのは間違いない、と私は信じています。
だけど、その日を決められるのは、わたしではない。
本人だけです。
どこでどういう気づきを得るのかを決めるのも、親ではなくて子ども自身です。
「気づいてくれなきゃ困る」のは親のほう。そしてそのような期待を抱いているうちは、決してそのように見える行動をしてくれないものです。
子どもが楽になってくれたら親は嬉しいかもしれないけれど、親のために、子どもの人生が動くわけではないのです。
自分の特性、ユニークな部分、生きづらさを「わかって」「勉強して」「克服する」ことを求めるのは、子どもにいい大学に行ってほしいと願う気持ちと変わりません。
親の理想って誰にでもあるんですよね~。
自由はいいものだし、個性を認めるのも大切。
それはそれ。
子ども達が、そういう自分を認められないのも実は自由だし個性です。そこ、認めていきませんか?
親もゆっくりゆっくりだよ~。