関わり続ける
月曜日はゆっくりできる。
記事を二つも書けるなんて幸せだ。
わたしは、若い人とも同年代の人とも年上の人とも話をする。
若い人の感性も好きだし、同じ苦労をしてきた同年代の話は癒されるし
年上の人の経験はさらにためになる。
最近、マウンティングについて話を聴く機会も増えた。
これな。
30代から40代にかけて、人は一度自信を持つらしい。
わたしにも恥ずかしい思い出がひとつあるから、何となくわかる。
上の人に、背伸びして説教しちゃう、あれ。
わたしは、介護の経験がないから、介護をした人の話を聴くと背が伸びる。
姿勢を正して聞こうと思う。
不登校の、ある意味壮絶な日常があったからこそ、家族の大変さというものが身に染みてくるのだ。
ぴよぴよのひよこほどよく鳴く。されたの、なんだのって。
世の中には、もっともっとスゴイ体験をしてきた人がいて
でも、その人たちは、他人に何も言わないし、自分の経験を語ることはしても
自分がどれだけ悟ったとか、わかってるとか言わないものだと思った。
今の苦労も普通にして、とにかく普通なのだ。
常に前を向いて歩いているだけの印象が強い。
「これを世に広めたい」という希望だけがあって、自分をよく見せようとか、能力を評価されようとか、自分の言うことは正しいとか、そういう意識がほとんどないのがよくわかる。
私も少しだけ色々あったけれど
今は、関わった人を笑顔にしたいと思うだけで生きてるのかなと思うことがある。
私が能力を発揮して、今の仕事で全力を出していることは
別にたいそうなことではない。
過去の積み重ねと自分の意識の方向が、今の仕事に役立てばそれでいい。
もう誰とも競ってなくて、そこにあるのは、自分との闘い。
娘として生きてきた20年ちょっとと、妻として母として生きてきた20年少し。
親と別れてからの月日も長くなった。(何の援助もない生活、まあ当たり前ですね)
娘気分などとっくに抜けて、妻としての守られ気分も抜けて、日々、自分の足で歩いている自由の身である。
私の前で、伝えられる様々な人間模様をわたしはどれだけの器で受け止められるかな、とたまに自分に問いかけてみる。
羨んであげられないけど、あなたが世界一かわいそうだとも思わないけど。
息子たちが不登校の暮らしをしていた頃、家庭訪問をしてくれる先生のために、美味しいお茶やコーヒーを淹れて、チョコレートと共に供した。
少しでも学校の疲れが癒されますようにと。
そして、いろんな話をした。その中で、不登校への理解を深めてくれた先生もいた。
人ってね、それだけでいいんだよね。
ちょっとしたことの繰り返しと、温かさがあれば、人は変わっていく。
男性とのお付き合いだってそう。
小さい日常を一緒に過ごしながら、お互いが変化していく楽しみがあれば、相手がどこにいようが豊かな気持ちになるのだよ。どんな出会いでも、どんな関りでも、そんな表面のことなんて関係ない。
ゆっくり変化すること、繰り返しを諦めないこと、根性さえあれば、誰とだって築いていける。相手を愛したならば。
理由はただひとつ。相手を愛すること。
関わり続けるのは、その理由だけ。