風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

「赤毛のアン」とわたし

仕事に復帰した。

復帰する前とでは、見る世界が変わってしまった。

忙しすぎて見失ってしまったものを取り戻した感じだ。

 

それはそうと。

赤毛のアン」である。

 

過去がいつのことなのかまったく覚えていないのだが

少なくとも中学生になる前には「赤毛のアン」を読んでいたと思われる。

そしてシリーズ全て読んだ、はず。

 

村岡花子さんの訳である。

 

赤毛のアン」は、児童書として、他の訳でも出版されている。

思いっきり子供向けに意訳したものから、最近出たものまで。

私は自分が「赤毛のアン」という物語が好きだと思っていたので

きちんと訳された最近の物も読んでみた。

だけど、なぜだかまったく刺さらなかった。

もしかして、読み始めた年齢のせい?と思った。

中学生だったから楽しく読めたのか?とか。

 

しかし、休職中に『アンのゆりかご』を読んでわかった。

 

私が好きだったのは、あの本から伝わる「アンの世界」であった。

村岡花子さんが実際に経験したものが反映されているあの物語。

訳が不完全だろうが、幼い頃から寄宿舎に入って英語を学んだという体験が色濃く反映されたあの物語。

 

あの本から立ち上がってくるのは、まさしくアンの世界であった。

 

私が好きだったのは村岡花子さんの文章だったのだ。

 

私が中学生の時に読んだたくさんの翻訳小説がある。

今じゃ、人気の作家が訳したりもしているが

それで読みやすくなったものもあるけれど

私には、シャーロックホームズやアガサクリスティも

昔の訳のものがいい。

 

それはおそらく、時代というものも関係しているだろうと思う。

同じ時代に近い人が訳せば、その時代の空気も訳される。

どんなに「正しい訳」であろうが、スマホが当たり前の時代に生きている人間が

パソコンもない時代の小説を訳しても伝わらないものがあるのではないか。

 

少女時代に日本にやってきた海外の女性から教育を受けた村岡花子さんが

赤毛のアン」を訳した。

そこに海外の空気が乗らないわけがない。大人になって身に着けた空気ではない。

それを私は感じたのだと思う。

そしてまた、海外に行くことなど夢にも思えない少女たちの心を掴んだのだと私は思う。

 

この発見、実は、仕事を休んでいる間に、わたしは、自分の言葉に対する反応が

歪んでいることに気づいたことが発端であった。

わたしは、自分を守るために、言葉を正しくとらえない時がある。

どうしても心に突き刺さってしまう言葉をシャットアウトするために

ざっくりとしたイメージで文章を捉える癖があるようなのだ。

 

時々「誤解しているんじゃないの」とメールやラインのやり取りで言われることがあって、不思議に思っていたのだが

信頼できる人からの指摘により、ようやく気づいた。

 

自分にとって受け入れられない感情が乗った言葉や文章に対して

私は「言葉を見ずに」反応しているということだ。

その文章のまとまりが発している「雰囲気」「イメージ」をまず受け取ってしまうので

細かい言葉のニュアンスを無視していることがある。

何か私に要求している文章だな、何か私に悟らせようとしているな、私に無理を言ってきているな、と思った瞬間、文字を正しく読まないことになっているようなのだ。

 

思い返せば、私の読書というのは、ざっくりとしたイメージを「読む」ものであり、言葉のひとつひとつを覚えるような読み方はしたことがない。

なので、本をたくさん読んでいる割に、最近よく行われている読書会に参加するのはとても躊躇してしまうのである。

そんな風に読んでないって~ということがわかってしまうから。

 

私は、多くの児童書を読んで、その中にある考え方や主張、伝えたいイメージを取り込んでいった。細かい部分は覚えていなくとも、この作者がどんなことを伝えたがっているか、みたいなことを私は読んでいた。

なので、どんなに流行している本でも、そういう中身のない小説や物語はほんの数ページでやめてしまうし、読めないのである。

 

物語の中にある思想や哲学を読み取ることが、私は大好きだったし、今もそういうお話に出会いたいと思っている。

 

単に面白がらせようとか、エンターテインメントだけを求めたようなお話は、おやつのように読んでは忘れてしまうのみである。

 

わたしはこれまで、多くの人の言葉を誤解して受け取ったかもしれず

それはかなりの損失であったかもしれない。

けれど、なぜだろう、人の書く文章や発言からにじみ出る「何か」を私はどうしても感じずにはいられない。

 

たくさんの経験を経て、ようやく「言葉からの攻撃」を怖がらずに済むようになってきたのは、これからの自分にとってプラスになることだろうし

だからといって過去の自分は、自分をしっかり守ってきたのであり、その感覚を違う意味で研ぎ澄ましていくことが、これからの仕事だと思っている。

 

人は、言語そのものでなく、身体や声色で感情を訴えてくる。

表情や体のしぐさ、文章の中から立ち上がる空気、そういうもので伝わるものも多い。

それをビリビリと感じ取ってしまうのは、あまり嬉しいことではないけれど

それによってできることもあるのではないか。

その可能性に自分のこれからを見たような気がしている。

 

赤毛のアン」は、村岡花子さんのものでなくてはならない。

これまでも、これからも。

いちご水に胸躍らせた少女は、今も私の中にいる。