記憶という娯楽
連休のショッピングモールはあまりにも人が多すぎて
コロナなどなかったかのように、でも、マスクで防御しているから大丈夫ですと言いたげな人たちで溢れていた。
うっぷんを晴らすかのような人込みに驚きながら
私は、自分の買い物を済ませることと休憩することで精いっぱいだった。
さて。
そんな中、必死で歌を覚えるという毎日を過ごしている。
私の欲望ははっきりしている。
「何も見ずに歌いたい」ただそれだけのことである。
メロディや歌詞を頭の中に入れて、そこから取り出して歌うことの楽しさったら
何にも代えがたい。
覚えたくて必死になっている自分を
私は懐かしく思いつつ、止められないでいる。
たぶんこれは依存というものだ。
ソラで歌えるようになるまで続けるのはわかりきったことだけど
そのせいで、家事や用事がおろそかになる。
昔から暗記が好きだった。
文章を覚えることと、歌詞を覚えることは似ている。
覚えてしまえば自分のものになる。
その言葉を唱える時に心が入る。
これは快感だと思う。
文字がない時昔、物語は聞いて覚え、口で伝えられてきた。
それもきっと娯楽だったんだろう。
身体の中に入ってしまった言葉が
自分の中から出て行こうとする。
まるで自分が体験したかのような錯覚に陥いることもできる。
小説を読む以外に、合唱団にいた6年間で覚えた歌の数々が
私の中にあるのだろう。
ヤマハ音楽教室で毎月配布されていたレコードもすべて覚えたし
父が持っていたフォークのレコード全集も覚えた。
歌をやってる人は、歌詞を心と頭に蓄えながら生きているんだなあと改めて思う。
それが現実の経験と合わさった時、鳥肌が立つような不思議な感覚がやってくることもあって、だから歌はやめられないのだ。
歌を覚える時、みんなどうしているのだろう。
私は、まず耳コピをして、わからないところを楽譜で追って、ある程度メロディを覚えたら歌詞を徹底的に覚えることにしている。
今は、最後の歌詞を必死で覚えているところ。
そこだけは、年齢とともに覚えにくくなっているようで
だけど、すぐに覚えられないからこそ、歌詞の世界観を思い描くことで定着させている感覚がある。
脳の中に新しい回路ができていくかのように、覚えていく自分が好きだ。
何より歌って楽しいし。
そして、すべてひとりで完結する楽しみであるということ。
誰に迷惑もかけないし、ひとりでできるし、ひとりで楽しい。
勉強が楽しかったのも、その部分が大きいと思う。
記憶する、推理する、という遊びを
私は3歳で覚えた。
放っておかれて暇だったので、童謡のレコードをすべて覚えたことから始まったのだと思う。それだけは親に褒めてもらえた。
どんな環境から何が生まれるか、わかったもんじゃない(笑)
どこにも行けず、誰とも関われず、孤独な子ども時代にも
音楽と本、という友達がいた。友達を記憶して、いつまでも楽しみたいというのは素直な流れだったんだろう。
そういえば、今も、楽しかった記憶を反芻して遊ぶことがある。
二度と会えない人であっても、別れが納得できなくても
それは忘れて、楽しかった記憶だけを取り出している。
だからこそ、会ってる時の瞬間の楽しみが、私のすべてだ。
関係性を長く続けてどうのこうの、というよりも。
素敵な瞬間の積み重ねを大切にしているのは、そこから来ているのかもしれない。
不快な記憶が何度も蘇るという癖も当然あるけれど
記憶できるという能力のおかげで、生き延びてこれたのだろう。
目の前で教師が暴力をふるっている光景があっても
私の脳は過去や記憶をたどることで、その目の前の「見たくないモノ」を遮断することができた。
好きな歌を脳内でリピートすることで、不快な状態を耐え忍んできた。
覚えたものが自分を助け自分を励ましてくれる。
だから、覚えることは苦にならない。
「ちはやふる」で百人一首を友達にしている「しのぶちゃん」というキャラがまさにそうで、だから私はこのコミックが大好きなのだけど。
脳内に友達を作ったことがない人には理解できないことかもしれないが
現実だけでは耐えられないような時に
ものすごく役に立つ。
本を読め、ということはまさにそのことで
成功哲学をいくら読んだって凹むだけだけど
シャーロックホームズや赤毛のアンを頭の中に住まわせたら、
人生は楽しく豊かなものになるんだ。
人生が寂しくなることなんてない。
たった一人になる夜も、寂しさに震える夜も
誰かが生み出してくれた言葉に心を暖めて過ごすことができるよ。
記憶は楽しい。