ゆらぎ
ゆったりとした気持ちで仕事に向かうと
苦手だった同僚が優しく思えた。
自分の余裕のなさは伝わるし
また、半年を経て私という人間が理解されてきたからだと思う。
しばらくモヤモヤイライラしていた。
その理由を早急に答えを出さずにいた。
私の中を見てみるとそれは「ゆらぎのない人」に対する苦手意識だった。
ゆらぎのない人が苦手なのは今に限ったことではない。
何かを信じ切っている人、依存している人、「これしかない」と思っている人。
特に宗教や自然派と言われる人たちに多く見られるこの「硬さ」は
教祖もびっくりしていることであろうと思う。
おそらくは発達障害のグレーゾーンに含まれるであろうその「硬さ」と「頑なさ」は
私の母親に見られたことが、最初の出会いであり、その後、そういう人を呼び寄せてしまうきっかけにもなった。おそらく、私自身がそういう人たちの中に母親を見て、「なんとかしたい」と思ってしまうことが原因だと思う。
母親を救えなかった、あるいは、そういう母親から愛されなかった理由を知りたい気持ちがそうさせているのかもしれない。
言ってることは威勢がいいし、正しそうに思えるし、言い切ってしまうから頼ってくる人もいたりする。
だけど、その人と「対話しよう」とは思えない。
会話にならなくて、一方的に「聞くだけ」「聞かされるだけ」になってしまう。
それがとてもしんどい。
私の話すこともすべて切り取られ、意味が分解され、その人の主張に取り込まれるだけで、お互いに何かを創り出すことができない。
そしてその人の行動と発言は大きくかけ離れているのだが、その矛盾に気づかない。
さて。
私には大切な友達がいる。
不登校の相談事業をやろうと思った時に一緒にやってくれた人たちだ。
友達から学んだことはたくさんあって
それは緩やかであることや、優しくあることや、弱く見えて強いことがあるってことだった。
母親のような、お姫様体質で弱みを見せない強がりの人たちと知り合ってしまい傷ついている私を癒してくれたのは
不登校の相談をやっていた時に知り合った人たちだったのは
「守られた困らない人生」ではない人生を送っている者同士の心の交流があったからだと思っている。
病人や障害を持つ人と共に暮らしている人の静かな覚悟や勇気を見ると
とても励まされるし謙虚になれる。
ゆらいで悩んでいる人の強さが私は好きだ。
弱さは宝だ。ゆらぎも宝だ。
赤ちゃんのファーストコンタクトが母親で、その母親と決定的に相性が合わなければ
一生その疑問と向き合って人間関係の困難さを抱えるのではないかと思う。
今やっと、母親とわかりあえなかったことや、母親の頑なさをほどけなかったのは
私の責任ではないし、本当に相性が合わなかっただけのことで、自分をそんなに責める必要はなかったなあということだけである。
ゆらぎのない母親に理解してもらおうとした努力は、人生後半に実を結ぶことになった。
結局そういう人たちに私を理解させることはできないということがわかって
私がそういう人たちを「理解して対処する」技術を身に着けたことで
私の対人関係は大変スムーズになった。
そしてついに、母親に似た人に対して、努力したり気遣ってあげたりする必要もなくなったことがわかった。
今回、久しぶりに「頑なさ」に出会って、うん!もういらない!って思えたことが収穫であったと思う。
親というのは、このように子どもに影響を与えてしまうものであるが
ちゃんと自己研さんしていけば、親からの影響を越えて行けると信じている。
アダルトチルドレンという言葉に出会ってもう何十年になるだろうか。
死ぬまで色々思うんだろうけど、もうその幻想に困らされることは減っていくと思う。
ゆらぎと共に歩くことをやめないでほしい。