生活と理想
また雨の日曜日。
かなり遅く起きだしてダラダラ過ごしているうちに夕方になる。
自分自身を立て直すための大事な休憩なのに
何もできていないことに罪悪感を持ちそうになる。
やばいやばいとその思考を変化させる。
若くはない身体で遠方まで夜に出かけることが続くと
さすがに週末がやばいのであるが
家が片付かないことにも落ち着かないでいる。
やっと二度目のうたた寝から起きだしてコーヒーを入れた。
さて。
この世界ではようやく男性の問題発言や問題CMに声をあげる女性が増えて
ほっとしている。
思えば30年前、私はひとりである組織の中で文句を言っていた。
それは、打ち上げに「生のパイナップルを使いたい」という男性陣に対してのことであった。
生のパイナップル=切り分けが必要なおみやげ、である。
今の私ならそう言えるけど、学生の私には言葉が見つからなかった。
誰もが楽しむはずの打ち上げに、どうして女性の手を煩わせる「生のパイナップル」を注文するのか意味が分からなかった。
そして、注文するのは女性なのである。
男は食べるだけだ。
今でも「パイナップル事件」とあの頃の同期達は揶揄することがあって
本当に不快でしかないのだけど
私の真意は女性にも伝わらなかった。
あれから年月が経ち、職場のお茶くみはなくなり、コロナのせいもあって
個別のペットボトルのほうがおもてなしの時代になった。
女性だけの今の職場では、そもそも「女性だから」何かをさせられるということはない。
育児や介護をしながらバリバリと営業で稼いでくる女性たちを見ていると
いちいち誰かの手を煩わせなきゃ仕事できない男って何だろうなと思ったりする。
女性の才能ある人たちが、男の才能のために時間を奪われ
その才能を発揮する時間とチャンスをなくしていることにも気づかない世界。
サポートが必要なのは、男も女も同じなのにな。
わたしは、たまに掃除にお金を遣うし、お弁当なんて作ってもらえないから
外食してしまう。
主婦がいる男の、なんてイージーなことだろうと思う。
専業主婦にならざるを得なかった時代。
手作りが素晴らしいとか、無農薬野菜がいいとか
そういう界隈に出入りしていたことがあるけれど
それこそが特権であるってことがわからないようだった。
無農薬野菜を買ったらもれなく「じゃぶじゃぶ水で洗わなきゃならない」が付いてくる。水道代を気にせずにいられる田舎の人か、金持ちの都会の人でしか買えない。
水道代を気にせずにいられる田舎の人は、そもそも家賃など払わない生活だろうし。
たしかに健康はお金で買えないけれど
いやいや、みなさん、お金で健康を買ってるんじゃないでしょうかと
思わざるを得なかった。
あの時感じた矛盾は、じわじわと広がっている。
貧しさが無農薬野菜を買えないことと直結しているのであれば
本当は、ロハスの人たちは、貧しさへのアプローチをするほうが有効ではなかっただろうか。
農業はお金がかかるんです、大変なんです→だから農協があんなんで、農薬を使って値段を下げたんじゃないの?ってことで。
結局は、お金の流れが農業をおかしくしたのであれば
無農薬野菜を受け入れない人たちの責任にして、善意のお金のない人たちに無農薬野菜を売りつけることで解決するわけはないだろうと思ったりしました。
私はいつも「そこ」に立ち戻ってしまう。
今の私は、もやもやを抱えている途中で
でもそれがとても大切な時間ではないかと思っています。
これまでの人生で得たものと、今の時代をどうつなげばいいのかを
模索しているところです。
今できることを精いっぱいやりたいけど
体力も時間も足りない気がしてる。
まずは自分の生活からです。