私にできることは
昨日、私のTwitterらんどで異変がありました。
まったくいいねも付かない、ただのつぶやきでしかないのですが
スピと自然派が融合したような(これはよくあること)ことを発信しているtweetが
いやさすがにこれは反論されても仕方ないよね、ということを言ってたので
その通りの↑ことを書いたところ
いくつかのコメントをいただきました。
その是非について書きたいわけではありません。
それよりも、私自身が長年心と頭に引っかかっていたことが線を結び
「やっぱりそうなるのか」というメカニズムが理解できた気がしたので
そこんところを書きたいと思います。
スピや自然派にのめり込む人たちがすべてそうではありませんが
やはり心に傷を抱えた人たちがハマりやすいのはあると思います。
そして、自分なりに克服した、現実世界で生きていけるような力を得た、有名になった、ということから、ご自分を過剰に宣伝していく流れがあって、傷を持った人のエネルギーはものすごくて、その無意識のところで「復讐」という文字があるんじゃないかと思われるぐらいのパワーで世の中にコミットしていく。
そこに、スピな理論や、ちょっとずれた自然派思想が入り込んでいくのが
長年その界隈を観察してきた私の見立てです。
私がコメントをいただいた中に「善意に攻撃するようなコメントをするな」というものと、もうひとつ優生思想を持っている人のものがありました。
・自分たちが善意だと受け取るものに対しての意見は受け付けない。それは悪意である。という短絡的思考。
・強い者が生き残るのは生物として当然だ、という優生思想
この二つが私の元に届いたということで確信したのです。
そもそもの発端は「江戸時代は○○という病気は今より少なかった」という誰も数字を上げることができない、根拠のない発言だったわけです(根拠はあるとおっしゃってましたがそもそも、その時代に国民の病気を調べ尽した人などいないことぐらいは誰にだってわかるし、寿命が短いわけですから、そのような病気になる以前に亡くなることのほうが多いかもしれず、ぐらいの想像は勉強してればわかるはずですが)。
「今の薬漬けの医療に対する危惧」を伝えたいがために、江戸時代をわざわざ例に出してしまい、それによってあちこちから「それおかしいで」と突っ込まれただけなんですよね。別に人格ややってることが攻撃されたわけではない。
なのに、それに対する反論が優生思想と短絡思考だった。
自然派の団体に少しの期間いたからわかるんですけど
無農薬がいいとか、添加物がどうとか、それはそれで間違ってないけれど
なぜか陰謀論的なものや、宗教的な方向に走ってしまう人が多い。
きれい、うつくしい、汚れていない、みたいなキーワードで生きてしまうと
最終的に行き着くのは、人間という、そもそも美しくないモノへの否定と、選別する思考。
自分たちに優しくしてくれない、わかってくれない人はみんな敵だ、みたいになるし。
微生物や虫たちにはやさしいのに、人間に対してはやさしくないみたいな。
そもそも、いいお野菜とお米で子ども食堂なんてできません、高くて。
わたしは、鬱病の時期にそこにいたのですが、精神疾患に対する理解を正しくしようとする人はいませんでした。
そんなのいいお野菜食べたら治るのに、ぐらいの軽さ(笑)
そこの人たちが軽蔑している向精神薬によって生かされてる私は、いわゆる劣等生扱いでした。
自然派とスピに共通する、強烈な承認欲求(しかも自分たちは気づいていない)は、世間からの拒絶を当然のように生み出していて、それ故、さらに信者が理屈の通らないことを言いだす流れになっていく、みたいなところがあります。
普通に「これは良くないから変えていこう。どうやって?」という話なら誰もが理解できるのですが、そこに「批判はダメ」「愛によって変えるのだ」「やってることはいいことだから反対する人がおかしいのだ」という思想が混じってくるのがもう、ヤバくなる前兆だと思われるんですが、どうでしょうか。
そこに通じるものって全部「私を愛して」「私を認めて」に集約されるような気がしています。
自分で自分を愛せていれば、他者からの批判にそこまで弱くならないはずだし
突っ込みどころがいくつもあるような、理系真っ青なおかしな理屈を「特別な人だけがわかること」と思ってしまうのは、自分を愛せない心の裏返しのような・・・。
自然派、無農薬、江戸時代、スピリチュアルと
天皇崇拝や自己責任論、歴史ねつ造は、ホントに近しいところにあるのだなと思わずにいられません。
私は、そうじゃないと思いたかったんです。
子ども達にいい野菜を食べさせたい、お金より心の時代が来てほしいって真剣に願う人たちは、決して歴史を歪めないし、間違った実験を信じたりしないと思いたかった。
でも、違った。しかも、私が愛する児童文学を象徴に祭り上げる人もいて。
それがとても悲しかったことを覚えています。
みんないい人なんですよ。優しくて弱くて。
マルチにハマる人も、怪しげな商売を広げる人も、どこか傷ついた顔をしている。
私は今、具体的に何かをしているわけではないのですが
出会った人たちとのおしゃべりを通して、たくさんのことをアウトプットしたり
その人の心の奥にあったものを出してもらえるような自分でいることを心がけています。
誰もが、家族、会社、地域、信仰といった狭い場所に自分を閉じ込めていて
その中で通じることしか考えていません。
外の世界が広いことも、たくさんの考え方に満ちていることも
なかなか理解できません。
わたしは、どこにでも出向き、どんな人とでも出会い
その人の心に新しい風を置いていきます。
今できることはそれぐらいだと思ってやっています。
このブログもその一環です。
社会が苦しくなればなるほど、人は内側に籠り、自分に対するいい評価だけを求め、権力者に歯向かわない自分であることに喜びを感じる傾向があるのかもしれないんですけど、それってどうなの?と私は思います。
江戸時代すばらしい、弱いものは淘汰されるのが当たり前だ、年貢を納める人だけが優遇されるのだ、偉い人には逆らっちゃいけないんだ・・・ってもう時代逆行も甚だしいんですけど!そこまで退行したいんでしょうかね、日本人は~~~
って思うから、思うから!!
自分にできることは何かを今一度明確にしていこうと思います。
祖父母が体験した戦争の傷。そこに起因した子どもの放置、虐待。その末の今。
そして、克服したと思いたい、強くなったと思いたい、からの~自己顕示欲。
世界から愛されたい承認欲求。
まさにここ。
のびのびと生きたいよね。何から始めようか。