物語のように生きる
ブログを続けること。私の大切な仕事。
今朝、少し疲れていて、一度起きたけどまたベッドに戻りました。
スマホを眺めながらぼーっとしてから
ベッドルームから出てみると
レースのカーテンが揺れて、陽の光がうちの中の白い壁と床を照らしていました。
なんて美しいところに住んでいるのだろう。
どんなに感情が揺れたとしても
この環境を自分に与えたのは過去の自分。
なんて美しい気持ちでこれを用意してきたのかと
目の前にある奇跡を見つめました。
私が小説を書く代わりにブログを書いているのは
自分自身が主人公だと思っているからで
架空の人物を創ることより、自分の人生を物語のように
書いて、自分で読むことが望みだったから。
さっき、「妻を変えようとせず、自分も変わらないことを信条とした夫婦」のnoteを読みました。
私も、そういう人生を描いてきたし、やろうとしてきました。
夫を変えることなく、子どもを変えることなく、そのままでいいと全肯定して生きてきました。
だけど、周りは私にダメ出しをしているような気がして、その声に自分が耐えられなくなった。それが違いだなと思って読みました。
そしてまた、この夫は、動けない女性を側に置くことで、自分の生き方を肯定するようにしたんだろうと、年齢を経た私は思いました。
素直じゃない読み方かもしれないけど。
そして、わたしは、この「夫がそのままの自分を肯定してくれたから元気になれた」という物語を採用することなく、自分がその夫となって、自分を肯定し、自分を元気にするシナリオを生きていくのだなと気づきました。
男に依存して幸せになるという物語はもうたくさんだ。
私が、自分のために用意したこの家と、これから整っていく心が、私の行く先を照らしていく。
男に依存した女性が幸せになるのではない
男と女が同じ地平線で暮らし、助け合いながら生きていく幸せを
私は描いていくのです。
エイブラハムは言います。
「コントラストが願望を生む」と。
自分にとって不都合な現実や、違うと思う出来事を見るたびに
自分の本当の願いや望みに気が付く。
だから、否定や批判がいけないという話を私は採用していなくて
批判したくなる物事を見ることで、自分の本質を探し出せる自分であることに重点を置きます。
ちょっとした違和感、ちょっとした差異に気づくことが
自分自身とつながることになります。
その違和感を見過ごして、違和感を受け入れる自分を善だと思い始めたらヤバいです。
みんな違うから、生まれたんだし
みんな違うから、生きているだけでいい。
違いを味わうために私たちはここにいる。
鳥の声と、たまに車を出す音しか聞こえない山の上に住んでいる上に
テレビを観なくなって、アーティスティックな日々になりました。
ここから、何が生まれるだろうか。