自己肯定感の呪い
どもです。
久々に風邪?ですたぶん。
眠いわ眠いわ眠いわ!
そして寝てます。
ちょっとある場所で久々の話を聞いてきたんだけど
親ってまだ(というかずっとというか)「うちの子の自己肯定感低くて」と悩んでいるのだなあ。
体調イマイチで頭がまわらなかったので、その場ではきちんと言えなかったんだけど。
そもそも「あなたたちに自己肯定感あります?」って話なんですよね。
「わたしは学校に行ってたので」って
自分の子どもが不登校になった途端、学校行ってた自分アピール。
いや、わかるよ。
「だから不登校のッ子どもの気持ちがわからない」と続くのだから。
けどね。
学校に行ってた自分が「自己肯定感」になるのだとしたら
「ちょっと待って」
その自己肯定感、すぐに潰れますから。
子ども達が自分をけなしたり、「どうせ」と言ったりするのを否定する前に
「親に自己肯定感が育っているかどうか」を自分で振り返らないとまずいんじゃないかなあと思うんです。
本当に自己肯定感、あなたに育ってる?
「ほめたら自己肯定感育つと思って」って
子どもが不登校になったぐらいで、ぐらついているあなたのその「自己肯定感」とはなんぞや?なんですよ。
自分を肯定していたら、子どもの不登校ぐらいで悩まないでしょ。
「どうしたら親としての自分を肯定できるのか」を考えたほうがいいですよ。
「自信を持つ」なんて、環境で変わります。
世間のレールに乗っていれば、自己肯定感が育っているような「気が」します。
それだけのものです。
事故で体が不自由になる、配偶者が突然いなくなる、子どもが言うこと聞かなくなる・・・その時に「ああ、わたしはわたしでよかった」と思えますか?
日本の女性はただでさえ、自己否定で生きてるってのに
子どもに自己肯定感を持たせるなんて、幻を探すようなもの。
口先だけの褒め言葉も、「自信を持ってほしい」の望みも
子どもには直観的に見破られていると思われ。
もし、母親たちに自己肯定感が育っていたら
「せっかく先生が迎えに来てくれたのに、どうして動けないの」などと子どもに言わない。自分を低く見積もっているから、迎えに来てくれた人に媚びを売らなきゃならない。
「ごめんなさいね、今、私たちはそれどころではないんです。ありがたいのですが、お断りしてもいいかしら?」と言えると思うんですよ。
自分より先生が偉い、迎えに来てくれる同級生のほうが、学校に行けないわが子より偉い、と思っているの、丸わかりでしょ。自己肯定感、持たせてないでしょ。
「言葉への理想」が高すぎる。
言葉を実感としてではなくて、妄想してる。
「自己肯定感」という言葉を、魔法だと思ってる。
自己肯定感を認めていない学校が、それを言うんだからおかしいよね。
いい加減、気づこう。
夫がいなくても子どもがいなくても、わたしはわたしで生きていける、と言える女性はどれだけいますか?
誰かを蹴落とすことなく、自分でいられる人は、どれだけいますか?
自己肯定感を問題にするのは、それからだ。
どんなに有名な人だって、死ぬまで満足しないもんだと思う。
自己肯定することは、死ぬまでの課題にするぐらいでちょうどいいんじゃないのかな。
できなくったって生きていける。
死にたいと思いながら生き続けることができる。
その命を信じられるかどうかだと思う。