生き残れただけだから
何かに成功する人ってのはどこにでもいて
でもそれは、個人の経験に過ぎないと
私はいつも思ってる。
江戸時代が優れてるのなんだのと言う人がいるけど
身体の弱い人から死んでいったんだろうと思うし
こんな疫病が流行ってたくさんの命が失われたこともあったはずで
そんな時代に私は戻りたくないわ、と
ロハスの人たちの考え方にはとてもついていけなかった。
昔から、私は「たくましくない」「弱弱しい」という自己像があり
この世は、体力と健康に自信のある人だけが堂々と生きてるみたいだなあと思っていた。
子どもが不登校になった時もそう感じた。
結局「学校に行けました」という子ども達や親の自慢話でもちきりで
「今不登校でいる」子ども達へのフォローや支援の話にはならなかった。
「どうすればうまくいくか」にしか興味のない大人たちがほとんどだった。
わたしはそれが嫌で、親の会等に所属をしたいとは思わなかったのだが。
「起業しました」「不登校克服しました」「いじめられたけど乗り越えました」「鬱病から復活しました」・・・
どれもこれも個人の経験なのだ。
そしてそれは、本人だけが参考にすればいいのだけど
他人から「あんな方法でうまくいったらしいよ」という余計なお世話に使われてしまうことがある。
生まれ育ってきた背景が全然違う中で、解決法だけが同じわけないじゃない。
そしてまた、「私もその成功例に入りたい」と思うあまり
全然違う方向に努力したりして。
だから、成功例ばかりを取り上げるのは、私は好きじゃない。
生き残れなかった人の、でも素晴らしい人生もあると思うんだ。
っていうか、それがその人の人生だったってことがあるじゃない?
そして、成功した人の「その後」は誰も取り上げない。
美しい恋愛と結婚をしたけど、離婚したとか。
どろどろの夫婦生活になったとか。
起業したけど、倒産したとか。
最初の成功ばかりに目を向けて、「本当にそれは成功だったのか」を検証しない。
そしてすべてを個人の自己責任にしてしまう。
たとえば、不登校で学校に戻れた例があったとして。
その事例を事細かに分析し、どの学校でも同じようにできるようにするのが
大人の役割だと思うんです。
でも、たいていのお話は「個人が努力して(または家族が努力して)うまくいきましたとさ」で終わってる。
鬱病から回復してきた人の話も同じ。
「妻の献身的な努力」とか
そんなことをいくらアピールされたって、誰のためにもなってない。
必要なのは「誰でも生還できるための仕組みづくり」であって
「誰もが同じ知識を持てばいいのに」じゃないんですよね~。
日本だけなのかどうなのかわからないけど
スーパースターを創り出して、「お前もあの人みたいになれ」っていうの。
そうやって、様々な理由でできない人を「残念だったね~」で終わらせる。
どうして多くの人を助ける仕組みを考えないんだろうね。
神や仏に祈ったり、赦しを行えばうまくいくだとかもそうだけど
「うまくいった人」だけの世界にしたいんだなあっていうのが
めちゃくちゃ違和感あります。
運というか、ラッキーにすがるしかないっていう世界?
それってなんだか変だと思う。うまく言葉にできないケド。
全然優しくない。
そして、「この人のおかげで○○うまくいきました」っていう個人的な体験がさ、「あなたはあの人を信じてないからうまくいかないんですよ」みたいなカルトを生んでいくし。
個人の努力だけでなんとかしようっっていう意識な。
なんとかならんかなあ・・・。
暗黒時代に宗教が流行るみたいな感じがするのよね、今。
命を大事に~とか言うてるわりに、すべての命を救うために何をしたらいいかを考えてる人が見えてこない。
スローガンと神仏への祈りだけやん。
生き残れた人だけのポジティブ思考。
祈りも大事やと思うけど、誰も社会の仕組みについて
考えんようになったら怖いで~それはそれで。