風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

注目されることなく生きることができるか?

朝から炎上している件で

今の自分とリンクする部分があったので

書いてみようと思う。

 

ブログというものが世の中に出てから

「素人でも注目される」ことになった。

以前から、メディアに出るか出ないかが、「何者かになった証」であるかのような風潮ができていて、その集大成が今回のメディアが作るオリンピックになったわけだけど

それも「命よりメディア」が選択されたと言ってもいいと思う。

 

つまり、「見せかけの世界のために必要な人と必要でない人がいる」という線引きがなされる世界が加速したと私は思う。

 

かねてより、スピリチュアルな人たちが、自らの人生を切り売りしてブログを書いてお金を稼ぐことが当たり前になり

出版社が乗っかって売り上げに使っている。

自分の恋愛や結婚、不倫や、出産、育児まで

すべてを商品化するあり方である。

昔は、芸能人の告白本が流行ったが、今やそれを素人が自分のために作ってるようなものだ。

 

「神様が私の不倫を応援してくれた」という神様界隈の人たちが後を絶たないし

自分の恋愛がまるで「生き方が良かったからうまくいってる」と宣伝して

信者を増やすことも当然のことのようになっている。

そうそう、昨日も「男を選ばないでセックスすると悪い気をもらっちゃうよ」という気持ちの悪い男性占い師の言葉が流れてきて、どこに悪い気を持たない男がいるんだよ!と突っ込みを入れたくなったんだった。

 

しかし、今回のメンタリストの炎上により

その「意味」が少し見えた気がした。

 

わたしは、不登校で悩む人たちにもずいぶん会ったり本で読んだりしてきたけれど

多くの人たちが「不登校でも何者かになれる」と言ってたし

また、「不登校経験を生かして何者かになろう」という風潮もあった。

 

私はそれが不快で嫌いで、そのことをブログに書いたこともあった。

不登校経験のある普通の人でもいいじゃないか」と。

 

結局のところ「何者かになれ」「注目される人であれ」というプレッシャーが今の日本を覆っているのである。

ユーチューバーなんてその最たるものではないか。

 

「役に立たなくていい」「何者かにならなくていい」と言ってる人たちに私は聞きたい。

もし、家族に働かなくてごろごろしている子どもやパートナーがいたとして

同じことをその人に本気で心から言えるのかと。

 

そしてまた、今SNSで注目を浴びたり、何かしらメディアに名前が知られている人たちが、明日から誰にも注目されない世界に変化したとしたらどうなるんだということも考えてほしいと思った。

 

「私が今、Twitterで注目されてるのは、私の努力の賜物ですから」と思うのであれば、あの炎上商法の人と、何が違うのだろう。

 

自分の名前が知られることが「当たり前」の世界の人たちは、そういう立場に自分が置かれることに、本気で向き合ったことがあるのか?と思う。

東京にいれば、ニートであっても本まで出してもらえるけれど、地方じゃそんな人は下を向いて歩くほかなかったりする。「価値」とはメディアが決めることなのだろうか。

 

広告屋にいた女の子は、自分の思想を舞台の上で語って

自分だけが注目されることに必死だった。

そういことをしてまで、「自分に価値がある」と思わせなければならないようだった。

 

注目されるために必死になって努力して「ここまできました」と思っている人、頑張ってたことで当たり前に注目されるようになった人たちが、努力しない人を馬鹿にしたり必要ないと思うのは、かつての自分を必要ない自分だったと言ってるようなものなんだが、けっこうそう思ってる人が多い気がしてる。

 

舞台の上で自分の思想を語ったスピってる女の子を見て私は思う。

私なら、ここにいるすべての観客に舞台の上で語らせるのに、と。

 

「私に力があるから語らせてもらえるし、私じゃなきゃだめなの」というのは

結局は「有名になることがすべて」「力を持つことがすべて」に集約されていく。

 

「ただのおじさん、おばさんになりたくない」からSNSで発信しているのであれば

そこからいつでも「降りれる自分」でありたいとわたしは思う。

 

不登校界隈でさえ、有名になってしまえば勘違いが起きる。

「何者かになった気がして」弱者を切り捨てたりする。

 

そうならない思想が必要ではないだろうか。

 

奇跡のコースを学んだ時も、結局は「許す人」と「許さない人」のふたつに、人を分けていた。それは違うだろうと思ったんだけど、影響力のある人がそう思わせていて、つまらなくなったから、学ぶのは自習することにした。

「許す自分」を高みに置いて、どこか特別感を漂わせる手法を、私は好まなかった。

 

どうして同じ地平で語れないのだろうと思った。

 

お金が介在するから?教える人と教わる人になっちゃうから?

そしてまた、そういう深い部分での葛藤を止めてしまえるから?

 

宗教や哲学、心理学、教育などというのは、常に葛藤を抱え、矛盾を自覚しながら進むものであるはずなのに。いつから注目度や有名度に振り回されるようになってしまったのか。

 

高額納税者である」「メディアに出ている」「フォロワー数がある」ことが「どんな言動も許される」ことへのパスポートとなるような世界にしていいのか。

「役に立つ人間でありたい」という思いが、「私の結婚や出産が誰かの役に立つから、私のアドバイスを聞いて!」という勘違いも生んでいるこの世界で。

 

意味なく恋愛し、意味なくセックスし、意味なく生きてるこの瞬間を愛せなくてどうするのだと。

 

芸能人が海外で自由を味わうのも、「何者でもない自分」であるが

いつまでも「何者でもない」をやってると、物足りなくて日本に帰ってきたりするわけで。

どうしたって「注目される自分」という麻薬から逃れられなくなってる人たちから薬を取り上げた時、その人たちはきっと「自分より注目されない、役に立たない人たち」を攻撃し始めるんじゃないかと思うと、誰にとっても他人ごとではないと思う。

 

「役に立たなくてもいい」「生きているだけでいい」と今まで一度も誰にも言われなかった大勢の大人たちの意識変革がなされるのか、それが鍵のような気がしている。

 

全然まとまらないものを書いてしまった。どこかでリベンジする。