仲間求ム
持ち帰りの仕事が押して、どこにも行けない休日になった。
急に寒くなったから、と自分を慰める。
仕事の合間に、借りてきた本を読む。
台風の間に読もうと思っていた本だ。
読めない人には読めないだろう。
虐待の連鎖が、これでもかと描かれている。
つらつらと考えが頭の中を浮かんでは消えていく。
たまにTwitterに投下したりして整理する。
わたしは、子どもを叩かないし、見張りもしない。
でも、そういう私は、子どもを大学に行かせることができなかった。
それが私を時折打ちのめす。
結局、幼い子供を叩きまくろうが、性的虐待があろうが
大学まで行ける子もあれば、しっかり自立する子もいる。
わたしは、いったい、何を頑張ってきたんだろうと思う。
ってか、何一つ頑張ってないけど、暴力を肯定する社会であり続けることの
無力感が半端なく私を襲ってくる瞬間が、たまにある。
まだ何も結果など出ていないし、子ども達がアラフィフになった時に
何を考えているかもわからないけれど。
今現在の私は、「結局、叩いていいんじゃないかよ!」とやさぐれている。
DVはダメだとか、人を見張って縛るのは良くないとか言われてる。
けど、子どもの行動やパートナーの行動を見張って監視して、あるいは叩いている家族は、そこそこうまくいってたりする。
既婚者の男は、見張られてることに快感を感じていて、嫁のところに戻っていく。
日本は、そういう国なんじゃないかと思うと
私の居場所がまったくないような心細さを時折感じる。
誰一人、暴力を止めないし、嫌わないし、なんならそれを勲章にして、物語にして生きていく。
建前で、自立だの自由だの、理想の子育てだの話してても
結局は、母親がすべてを掌握し、父親は暴言暴力で子どもを支配することが
平和な家族の姿であり続けているのを、私は眺めるしかない。
「つみびと」を読んで、ふと、そんなことを思った。
娘は自分の子どもを放棄して遊びまわって子どもは亡くなってしまう。
けれど、孫をそんな形で亡くした母親はなぜか救われている。
それを希望と呼ぶのかどうか、わたしにはわからないし、理解できていない。
暴力が引き金になって、物語が生まれて、救われていく。
そういう物語はうんざりだなあとも思った。
暴力なしで解決していく世界の話が読みたいし、そういう現実を見たい。
少なくない女性作家が、自分の子どもを叩いたことを普通にエッセイに書いていた。
それを読んで暗い気持ちになったことも思い出す。そんな人でも、精神世界では凄い人らしいよ(笑)
すべてが正当化されていく。
あの、毒親の漫画家もそうだ。
なんだ、それでいいんじゃん。暴力なんてたいしたことないじゃん。
結局みんな、救われんじゃん。いい時代じゃん?
外側を整えて、いい人の顔をして、家庭では弱きものを痛めつけて
それでもお金も人気も得ることができる。
私の努力、私の経験値は、どこかで役に立つのだろうか。
コントロール欲に駆られた人たちに囲まれたわたしは
コントロールの外にいる人たちとつながりたくてたまらない。
籠から出たい。
仲間、求ム。