この世に正解はないと思う
周りの状況と自分の内面が一致しないモヤモヤしている今日この頃です。
疲れてるだけなんだろうなw
先日、近所のバラ園に行ったのでスマホの中にはバラの写真がたくさんあります。
それだけでいい感じです。
花はそこにあるだけで癒してくれる。癒そうと思わすにそこいにいてくれる。
植物大好きです。
さて。
たまたま、家族のお悩みにこたえるYouTubeを観てしまい
少々考え込んでおりました。
家族というのは、社会との付き合いを学ぶ場であり、人間関係を学ぶ場である、という話でした。
たしかにそうなんだよね。そうなんだけど。
でも、もし、家族と付き合っていくこと、家族と疎遠でないことだけが正解だとすれば、(子どもに関する虐待は論外として)高齢者の介護をしていていじめちゃう人や、付き合っていることで精神を病んでいく人について、全く考慮されていないなあと私は思うのです。
家族限定ですべてが解決されたり、すべてをそこに包括してくような家族原理主義というものについて、わたしは疑問があるし、これからもっともっと家族というものが自由で分解されていくのではないか、その過渡期にあるのではないかという思いがあります。
今の日本の家族観を「正しい」とする世代は、アラフォーぐらいで終わりそうなんだけどね。
家族でうまくやってこれた人が、この社会でうまくやれるというのも
結局は昔からの家族観に当てはまる人だけの社会になってるということであり
年長者とうまくやれるのが親との関係性だとすれば
いわゆる体罰を肯定するかのような社会に出るためには、体罰を受け入れてなきゃいけないという理屈になっていくんですよ。
新しい、差別のない、暴力のない社会になればいいなと思うような人間は
差別の心や、暴力で目下の人間を従わせる風潮に抗うだろうし
そうすると今の社会に溶け込めない時期やはじかれることもあると思う。
それを「家族とうまくやれないあなたの問題」としてしまうのか
それとも新しい価値観をもたらす人間とみなすのか、で全く相談に対する答えも変わってくるのだろうと私は思うのです。
だから、今の大人が導く回答って、本当に正しいんだろうか、そもそも正しさなんてあるのだろうかと思わないのかな、ってね。
人との距離感も、国によって違うと思うし
「人として善良になりたい」と思っている価値観の国の人だと
困っている人を見ればさっと手助けする距離感を持っているし
日本のように「手助けして文句言われたらどうしよう」と躊躇するのが当たり前の距離感が世界で見ると変だなと思われてたりするんじゃないかと思うのだけど
そういう日本の距離感で馴染めて、当たり前で、それで周囲とうまくやれる人とそうでない人がいるのは当然なんだろうと思う。
だから、人生において、悩んだりしんどかったりする時期はあるけれど
それを自分を責めたり、親との関係性が悪いからだという原因に帰結させたりせず
ただただ踏ん張って生きていくことがすべてのような気がします。
あきらめずに他人との関係でチャレンジしてみるとか
家族はいっそのことあきらめていくとか。
焦っても仕方がないし、過去は戻らないのだから
ええ、わたしは奇跡にコースをお勧めしますが(笑
何か自分の中に信じられるものをひとつ持っていると
他人の言葉や「こうあるべき」の理想の呪縛から逃れられるのではないでしょうか。
家族に依存したり、お金に依存したり、スピや知識に依存したりして
みなさん生きているのですが
自分の依存先がすべてではないので、押し付けあわずにいれたらいいですよね。
何か一つの理論で、世界の何もかもが説明できるものなどこの世にひとつもありません。
さも、そういうものがあるかのように言ってる人がいれば
それはその人がそれに依存しているだけです。
あなたはこうだから、あなたは本当はこう思っているんでしょうとか、思い込ませるのが好きな人もたくさんいます。
支配の第一段階です。
自分のことは自分にしかわからない。
自分の人生は自分でやっていくしかない。
他人に杖になってもらう瞬間はあっても、支配されちゃつまんないです。
人を宛てにするより自分を宛てにして。
その自分を整えるやり方を教えてくれる人に出会えるとラッキーです。
ヨガにしても瞑想にしても、教えてくれる人を信頼するんじゃなくてね
そのヨガや瞑想そのものを信頼するんだよ。
なぜかみんな、人を信頼して、その真理を追究しないんだよね~不思議だ~。
そしたら、正解がないこともわかってくると思う。
ということで。
素敵な日曜日をお過ごしください(*^^)v