「待つ」を生きる
よく昼寝した一日でした。
夕方、ドライブに出てみると空が美しくて感動しました。
ここは、空が広く見える。
大阪市内はビルに挟まれてるけれど、ここには山があるから。
ずっとずっと、自分に欠けているものを追いかけてきました。
今も、やっぱり追いかけたいと思う私です。
けれど、ふと見た空に感動する自分は、今この瞬間にしかいないのだと思うと
「わたしはわたしのままで、何もなくてもわたしなんだ!」という気持ちが沸いてきます。
何も持っていないけれど、ここにいる私っていいなあ~って。
人に会いたければ会えるように努力して、自分からチャンスを作って・・・という日々を過ごし、うまくいかない時は凹み、うまくいけば幸せでした。
だけど、今は「待つ」時期に入っているようで、私から動くというよりは
来るものを待つ感覚です。
仕事もプライベートも、自分から動くのではなく、私はそのまんまで、動いている周囲と共に生きる、という感じ。
不動の自分を作っている途中というか、なんというか。
自分から手を伸ばしてつかみにいくほうがある意味、楽なんです。
結果もすぐにわかるし、手ごたえもある。
待つことは、わたしには修行です。
それでも、そうせざるを得ないことが起きている。
奇跡のコースのまま、精霊に助けてもらいながら日々過ごしています。
元夫が、喧嘩したら口を利かない人で、それが本当に辛くてキツかったもんだから
離婚したら「待たない」って決めてたの。
コミュニケーションを欠かさない人に出会いたいという気持ちでいっぱいでした。
そして、そういう人にも出会えました。
けれど、やっぱりどこかぎくしゃくして、自分の中にも違和感が芽生え
模索しているうちに「待つ時間」が不意にやってきたんです。
慌てなくていい、あくせくしなくていい、大丈夫、わたしは大丈夫・・・
今ここで「ありのままの自分でいる」だけでいいのだと思えるようになってきました。
何かを得るために生きるより、ただ自分のままでここにいればいいと。
そしたら、やっと挑戦したいことが少し見えてきました。
「やらなければならないこと」や「誰かのためにできること」じゃなく
「私が生きているうちにやってみたいこと」が。
ずっとずっと他人のためだけに生きてきたけれど
他人は待てばいいので(笑)
みんな自分の人生を生きているだけなので
私と関われない時間があるわけで
そのひとりになった隙に「なにやろうか?」って感じです。
好きなことをやりながら、好きな人たちと会えばいいじゃん!
好きな人たちに自分を合わせる必要なんてなかったやん!
わたしは、自分がいつも合わせないと会ってもらえない、会ってもらえなければひとりぼっちになると思い込んでいたようです。
「待つ」のが怖かった。待っても待っても相手してもらえなかった子ども時代のトラウマがありました。自分から「お願い」しなければならなかった悔しさもいつもあった。
けど、私は一人遊びができるようになり、そっちのほうが楽しいことも知っていたからこそ、相手に媚びて一緒にいてもらうことを選ばなかった。
それでよかったんだってやっと腑に落ちました。
待つ悲しさをとことん味わってみたから、次は待つ楽しさに移行したんだね。
あとは自分を楽しませるだけ。自分を愛するだけ。
他人との関わりで怖いものは何もないのです。
日曜日が終わります。
明日は、不登校カフェを閉めます。
新しい時代になったので。一区切りかな。
ではおやすみなさい。