育児というどうしようもないもの
あまりに立て続けに記事を出すのもどうかと思いつつ
ここまで書きたくなるのも久しぶりなので
勢いにまかせて書いてみようと思います。
私は沸点が低くてよく怒っているのですが
その一つに・子どもへの虐待についての考え方が甘い人に怒る・
というのがあります
私は長い間、母との葛藤について自分なりに調べ
家族療法をやっている精神科医に会いに行ったり
ワークをしたりして過ごした時期がありました。
カウンセリングも長い間受けていました。
母のこういう部分もある種の虐待ととらえていいんだなと認めると
今度は自分の育児への客観性が高まります。
私にとって「この人は信用できる」という判断基準のひとつが
その「自分の育児に対する客観性」なんです。
つまり「虐待だと子どもに思われるかもしれないなあ」という自覚です。
昨今「子どもは叩かれるために生まれてきた」などという珍説を唱える人が増えました。そう思うのは勝手ですが、わたしは、嫌いです。
だって「加害した自分は被害者」だと思ってるんですから。
「子どもが私を選んでくれて、叩かれてくれてありがとう」ってなんだよ?
完全に親という立場を忘れてるじゃん?
と思うわけです。
別に叩いてなくても、育児というものは、少なくとも「親の強制力」が働きます。
その強制力を「しょうがないじゃん」「わたしだって辛いんだから」と捉えるか、
「もしかして子どもにとって間違ってる?」と一度立ち止まって自分の行いを振り返り、その間違いごと引き受ける強さを得たかどうかというのは
私の中で区別をするので
どうしても前者に厳しい目を注いでしまいます。
子どもを虐待してしまってから自分を見つめ直した人を何人か知っていますが
私の中で、「子どもを叩いたことはしょうがない、わたしだってかわいそうなんだから」の思考の人とは付き合えず、「今は良好な関係だけど、娘にひどいことをした事実は消えない」と思って日々生きている人のことは尊敬している。
その違い、わかってもらえるかしら?
教科書に載るような文豪で、妻に対して今なら虐待案件と思われるようなことをしていた人も、私は苦手です。どんなに才能があろうが、誰かを犠牲にし、犠牲にしたことを美化する人を尊敬することは難しいです。
私の両親も、私に対して「いいことをしてやった」としかたぶん思っていないし、豚と呼び続けて自尊心を奪ったことも忘れていることでしょう。(決めつけMax(笑)
それはそれで、別にいいですし、弱い人だと思いますし、親としていてくれてありがたいですが、それ以上に涙を流して感謝するということはないです。
5月の不登校カフェで話したことですが
「何年たっても”今の私だったらもうちょっと子どもに何とかしてあげたのに”と思い返してしまうもの」です。
自分の育児が正解で、間違いなくて、別に振り返る必要ないわ、と思ってる親御さんたちとはそういう話ができない。
子ども達に対して後悔するということは、決して自分を責めすぎることでもなく、自分を大切にしないことでもなく、それこそ自分を大切にできているから湧いてくる感情だと思うんです。
自分に自信があるから、そこまで振り返っても自分を否定しないでいられるし、抱えていられる。
だからその「子どもは叩かれるために~」なんていう思想でストップしている人に対する共感が全くできません。
子どもがその親を乗り越えていくんだろうと思うので、別にどうでもいいのですが、とりま、今の私では仲良くできないというわけです。
親から受けた「ひどいこと」を「ひどかった」と認識できる力。
子育てで「間違えた」と思える力。
それを抱えたまま生きていける力。
これが強さだと私は思います。
「親はああいう人だし仕方なかったよね、私は痛くなかったし、痛かったとしても自分が悪かったんだし」と親をかばい、「子育ても親と同じようにしたから間違ってないのよ」と開き直るのは、私には、いじめ加害者をかばっていじめられっ子を否定する言動と似てるように見えて仕方ない、というのが私の認知です。
加害を認めるのは怖いです、誰だって。だけど、育児というものは、少なくともある種の暴力性を含んでいる。教師も同じです。それを認識して生きているかどうか、私はそこをいつも見てしまうのです。
親だから、というだけで正しいわけじゃない
教師だから、どんな場合でも間違ってないと思ってもらえるわけじゃない。
その「立場」を利用してしまう己の心の弱さを知っているか否か、が分かれ目のような気がします。
私のこの独断で人を判断する癖について
人はとても嫌がりますし、自分でも嫌味な奴だと思うのですが
私は、大人をかばってしまう人より、子どもの痛みをまず考える人が好き。
というだけです。
「子どもは叩かれるために~」も自分でいきなり実感したんじゃなくて、誰かの言葉を聞いて慰められて納得したんだと思う。
子どもに聞いたわけでもなく、証明もせず、ただ誰かの言葉を鵜呑みしなければならないほど、自分で考えずに生きていきたいんだとわたしは思ってしまう。
それって不登校や発達障害を机上で学ぶ人にも言える・・・かな、何となく似てる。
体験や経験と知識がばちっと結びついた時にはじめて、「こうじゃないかな」と言えるんであって、それも「こうだよ」とは言えなくて、「わたしはこうだったけど」としか言えないものです。
知識を得れば得るほどわからないことは増えるし、経験すればするほど、パターンはひとつじゃないことがわかる。
けれど、ある人は、知識を一つ学んだら、それが正解だと思って、他人に上から目線で語ろうとするし、自分の経験が100%正しいと思ってしまう。
試行錯誤や曖昧さに耐えられない人が、妄信したことを広めると怖いんだよね。
だから、そうじゃないよってSNSで発信するんだけど、わかる人にしかわからない。
まあ、そんなもん。
届く人にだけ届けばいい。
教育や育児って、過信するとどこまでも子どもを見ずに突っ走れるのです。
危険な組体操をやめないこともそうだし。大人が、子どもを使って自分自身を満たすことだけに必死で、それを教育や育児の「誰が言い出したかわからない理屈」だけで覆い隠し、最後は自分が犠牲者であるかのようにふるまう。その歴史が、いじめであり、不登校につながってるんじゃないかなあと私の経験は言っております。