りんご
店頭のりんごが安くならないので
ネットでりんごを購入した。
シーズンではないし、お徳用だから、そこまでおいしくなくて残念。
ジャムかコンポートにして長く楽しめたらいいな。
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うちは、勉強を強いたことはなかったが
その代わり、近所や親せきの悪口や、テレビの価値観が正しいと思わせずに
生活してきた。
それだけは、勉強がどんなにできようが、身に着かないからだ。
わたしは、学ぶことはとても大切だと思うけれど
何を学び、何を吸収するかを選ぶ力も大事だと思う。
お笑いの影響や、ヤンキー風の芸を売ってる人たちがテレビでまき散らす
差別的な発言やいじめのネタになりそうなことを
一緒に笑って「面白い」と言う人にはならないで欲しいという気持ちはあった。
いい大人なのに「今の社会に差別はない」だとか「男女平等が実現されている」とか「男と女は違うからこれでいいのだ」とか「日本で飢え死にすることはない」だとか
勝手に思い込んで、人に教えている者が大量に発生している。
いったい何を学んできたのかと思うけれど、そうやって自分が辛くなる現実を見ないように生きたいほど、弱い人間であるのかもしれない。
学校や家庭で自分自身をとことん破壊されて弱くなると、もっと弱い人の姿など見たくなくなってしまうのかもしれない。
私の実家では、お金の話や恋愛の話はタブーだった。
何がそんなに怖いんだか、「お金」=「名前を読んではいけないあのひと」だった。
父の遺産で揉めた時、ようやく私にはわかった。
彼らは何よりお金に依存している。だからこそ、タブーだったのだと。
生きることにまつわる、もっともドロドロしたお金と恋愛の話がまともにできないということは、いつまでもお子様でファンタジーの世界に生きろということだ。
その結果、「世の中には差別なんてない~」というお花畑が生まれる。
恋愛もお金を稼ぐことも禁じられた娘時代があったおかげで、そこそこたくましい自分に育った。なぜなら、娘時代に親の保護のもとで恋愛やバイトができなかったのである。すべてにおいて、「はじめてのおつかい」状態で始めるしかなかった。
それこそ、自分で価値観を構築しながらである。
「お金を求めること」「恋愛すること」は汚いものである、という実家の謎の価値観を越えていく=実家とは縁を切る、ということでもあった。
そこそこ裕福なバブルの時代を生きてきたアラフィフの子ども時代の家庭は、似たり寄ったりの「清潔家族」を演じていたのではないだろうか。そしてそのまま、子ども達に受け継ぐもんだから、色々と破たんしてきているのだろう。
私の実家は村にあって、その村では、お年寄りの自殺や、座敷牢や、色んな事件が密やかに語り継がれていて、表面上は「問題のないムラ」のように見えている。
いとこが蒸発した時も、大騒ぎするより先にいとこの悪口三昧であった。
子ども達には何も聞かせず、ひそひそと悪口だけが漏れてきた。どうすれば何事もなかったようにできるかを必死で考えたんじゃないかな。
本当なら、大きな問題にすべきだったし、そこからもっと大きな問題が明らかになったかもしれなかった。すべてに蓋をして父は亡くなった。
問題は消されるのだ。
それがこの社会を今も覆っている。
だから、昔は大家族で良かったなどという都市伝説を私は信じない。
視えないモノを可視化する今の社会のほうがずっとマシだ。
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職場での昼休み、わたしはいつもスマホのゲームをしている。
うるさい人がいるので、たまに、イヤホンで音楽を聴きながら仕事をする。
上司がわざわざ私の後ろを通る。
上司は「スマホをしている親」をいつも批判しているから気になるのであろう。
スマホやゲームを批判する自分に酔っているところがあり、自分ってすごい、教育者だわと思っているところがもう、私にはダメポイントである。
同じ職種の別の上司は「図書館がポケモンGOのポケスポットになるみたいだから、私もとりあえずやってみる」と言ってて、そこではポケモンの話をいっぱいしたものだ。「ゲームを嫌っていることが善である」と思い込んでいる人よりも、私は「やってみる」系の人が好きだ。
土曜日はいつも休憩中。