自分に引っ付いてた他人の目
独り暮らしも一ヶ月が過ぎた。
急に寂しくなる日もあり、慌てたこともあるけれど
その時間をかみしめながら過ごしているうちに
「わたしってこんな人だったんだ、これでよかったんだ」というものが
はっきりと自覚されてきた。
今までもわかってはいたのだが
その「わたし」は、なぜか「なかったこと」にしていた。
そのひとつが、大好物の恋愛に対してなんだけど
世の中が推奨する「幸せ」は、私には合致しないことがわかった。
穏やかで、一緒にいて疲れなくて・・・ってそれ
結婚するならそれでもいいかもしれないけど
少なくとも恋愛においては燃えない・・・
わたしは、太宰と関わった3人の女性を羨ましいと思った。
「酷い男」という感想は、常識的には頭ではそうなんだけど
私には「いい男だったんだろうな」でしかなかった。
友達には理解されなかったと思う。
常識派の女性たちから見れば
わたしは、幸せになれる男が目の前に来てもスルーしてしまうし
幸せを逃しているのかもしれない。
けれど、どうしようもないんだな、これは。
常識派の人たちが何をどう判断しようが、私には私の、不幸に見える幸せがある。
それを理解してもらいたいとか、わかってもらいたいと思うあまり
色んな説明をくっつけてきたし、
「みんなが言う幸せを得られない自分」に悩んだこともあった。
「あなたが歪んでいるからよ」と言われて傷ついたことも何度もある。
そんなこと、わかってる。
それが何か?と、今は思う。
人間なんて歪んでなんぼだ。歪んでない人は、気持ち悪い。
わたしはフェミニストだし、差別はあかんと思ってる。←かなり厳し目。
穏やかで幸せな結婚生活を送っているからといって、女性を差別している男性は山ほどいるから、それとこれとは全く違う話だと思う。
エキセントリックで天才的で生きるのがちょっと不器用な人が
私は大好きだ。
でも、そういう人は一人の人を幸せにしたりしない。
私の「好き」を追求したら、そういうことらしい(笑)
「善人」「いい人」なら、いくらでも寄ってきてくれるし
私さえ「これが幸せだ」と思い込むことができれば
平凡で何も困らない暮らしが手に入るのかもしれない。
けどなあ。違うんだな。そういう人生は。
涙で、自分が通った道が川になるくらい
自分の中から水分が全部奪われるぐらいの
悲しみを経験すること。
この一瞬があれば死んでもいいと思えるぐらいの
喜びを経験すること。
この振り幅(体力大事!)が私の生きる力なんじゃないだろうか。
脳内に「いい男コレクション」を詰め込んで生きていくのもありかと思う。
ちょっと狂ったように見える男の生き方を眺めているのがいい。
正論を吐きながら女を馬鹿にしてる男よりずっといい。
「夫を不倫に走らせてごめんなさい」なんて謝る妻を羨ましがる神経はない。
日本はそういう女性を尊び、持ち上げ、伝説にしたがるけれど。
むしろ、あの女優さんも、暗い部分があるから彼のことが好きで、ああいうことになっても別れられないんじゃないだろうかと妄想する。
アルコール依存の夫を、文句言いながら面倒を見ることで生きてる女性も知ってるし
人それぞれなんだ。
それを「幸せになれない人」とジャッジする人って何だろうなとも思う。
共依存とか名前を付けてわかって気になってるけど
ほんとのところは全くわかってないに違いない。
どれだけ世間一般の物差しで自分を測っていて、そこに幸せや不幸の基準を当てはめて、自分を不幸扱いしてたのかがわかった。
自分の好みに従うしかないし、降参するしかない。
平凡な幸せというものに従うほどに弱らないように、健康でいたい。ひたすらそれだけを願っている。
結婚している時の、あの、魂が諦めて生きるのをやめようとしたときのことを忘れちゃいけない。