風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

弱さとは

雨の日曜日。

ひなまつり。

 

ほっこりとマラソンなど見ながら過ごしております。

 

先日、居場所づくりをされている人たちが集まっているところに行きました。

私も一応、不登校カフェをやっていますし、将来何らかの形で場所を創りたいという気持ちがあるからです。

 

とても表現が難しいのですが、居場所を作っている男性たちに共通する「弱さ」みたいなものを、私は感じます。

あ、私とは全然違うエネルギーなんだな、と。

先日その違いを、肌でうっかり(笑)感じてしまいました。

それで、ちょっと慌てています。

 

弱い男性を周囲で支える女性たちがいて、それで成り立っていることがある。

自由な生き方や弱さを活かして何かをしている男性の陰には、必ず女性がいる。

女性たちがその表舞台にいることはないんですが、間違いなく精神的な支えであることは間違いない。それって、なんだろう・・・みたいなもやもやなんですよね。

 

私のようなエネルギーが強いものがいると

なかなか訪れられない人もいるのだろうと思うし

けれど、弱い女性として存在しちゃうと、それこそ、「わたしがこの場を仕切っていいですか」みたいな女性が現れるのも知ってる。

私も男性に支えてもらって居場所を創りたい(笑)

それは違うものね。

 

私のエネルギーを緩和してくれている友達がいるからこそ

今の不登校カフェが成り立っているのだと改めて

友達に感謝の気持ちを抱いているところです。

 

男性は弱さがあると、上手に支えてくれる女性をゲットしちゃうんですけど

女性が弱いと、DV男性や、マウンティングの餌食になりがち。

その辺が難しい。

女性を支えてくれる男性の存在が待たれるところではあるけれど

そういう歴史がこれまでないから

なかなか男性の意識が「女性の活躍を支える喜び」にいかないんだろうなと

思っています。

 

やっぱり海外か!!!www

 

繊細なのは男性に限らないし、女性が苦しんでいる状況と男性の生きづらさはちょっと違うんだけど、その辺を汲み取る場所はまだない気がしていて。

だって、男性主催の場所だらけだもん。居場所が。

 

今、ボランティアで関わっているらいぶらりーは、主催は男性だけど仕切っているのは女性です。その采配のバランス感覚がとても素晴らしく、わたしにとって、今一番居心地がいい。

職場も女性館長がいるところ。そういえば、わたしは、女性上司がそばにいてくれるとうまくいくみたい。精神的に安定します。

 

仕事は男性性でやるから、どうしても、私にも女性の力が必要になる。

男性には私生活を守ってもらいたい。

 

今、男性がとても生きづらくて、それで、居場所やフリースクールの代表が男であることはとても意義があると思うけれど、会社に取り込まれない生き方はいいと思うけど、

それでは何かが欠けている気がして。

おそらく、主催をしている男性たちは気づきもしていないだろうけど

その「気づいていない男性的意識」の問題は根深いと思う。

 

弱い男性であることで、何か、この世の中の新しさの象徴であるように自覚しているのかもしれないけれど、あくまでも男は男なんだ、私から見て。

それは、女性の辛さに対しての実感を薄めてしまい、また「男が生きやすいだけ」の社会を創りたいに近づいていないかどうかという気持ちがわいてくる。

 

別に、批判するつもりもなくて、ただ、興味として観てるんだよ。

女性が生きやすくなると、それこそ弱い男性の恐れが表面化してきて、やんわりと「男性だって辛いんだ」みたいな風潮で、女性の強さが否定されがちになっていないかどうか。

 

つまり、男性優位社会のまま、弱い男性も生きていきたいという話だから

女性が男性並みに活躍することを望んでいるわけではないし、女性の生きやすさを考えてくれるわけでもなんだな、これが。

 

「人間の」とたぶん、言ってるけど、その「人間」ってさ、

「俺ら男」なんだし、「だって、女になったことないからわかんない」んだろうし。

 

女性が普通に、今の男性と同じような生き方ができる社会になった時

男性はどうなるのかというシミュレーションを、男性自身がしていない。

「俺らの優位性は(気づいてないから優位性と思ってないと思う)保ったままだよね」というい無意識があるから、ほんとにやっかい。

 

上手にエネルギー交換ができるペアになれるのかが、人類に課せられた課題なんじゃないかという壮大なことまで私は思ってしまう。

 

「男を活かすための女」という位置づけでいいのか?みたいなね。

結局、男としてマウンティグをされてる人が、辛くても、下には女がいるってことになるとそれはマジでしんどいからなあ。

 

弱いけど、女より上、というその意識。

強い男は女を簡単に手に入れられるけど、俺らはそれができない、とか

最終的にそこにい行っちゃうやつ。

 

男が内面を言語化した時、自分自身の「女より上でいたい」「女には勝ちたい」「女を手に入れることで自分を大きく見せたい」というような本心が果たして自分で認められるのかどうかというのは、大きな問題じゃないかなと思います。

弱い男性だからって、女性を理解できるかというと、そうではないし(元夫で検証済みw)逆に、今の社会で強く生きている男性が女性にエールを送ったり、家事と仕事を両立できたりするケースもあると思うから、そこがとても難しい。

差別反対を叫ぶ男性が、女性を道具にすることはよくあることだから。

男が反対する差別って結局「男社会の中の話」として仮定されてるだけで、その中に女性差別は含まれていないんよね。それやると、自分が活動できない(私生活を支えてもらえない)という矛盾が生じるんだろうね。

 

↑に描いてある「男像」は、あくまでも一般的な話で

「そうじゃないよ」と思ってる男性もいるかもしれないけど

「そうじゃない」ってどういうことだよ?を知りたい。

 

女性の「弱さ」とそこから立ち直るのに、男性が協力してくれないことについて

語り合いたいよね。

 

弱い男性ほどマリアを求める。それは正当化される。

 

弱い女性が男性を求めると「依存」「メンヘラ」と呼ばれる。

 

 

 

不登校カフェでつくったお雛様

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