やっと時代が
先週はメンタルをやられたので
休日の今日は何もしないでだらだらしておりました。
夕飯作っただけ偉いわ~。
幼稚園がお寺で、毎朝、3歳から仏様の前で手を合わせて仏さまの歌を歌ってたからか、なんとなく宗教的な考え方が私には自然とありました。
親よりも自然や目に視えないもののことを考えていた、友だちとしゃべらない子どもでした。
無宗教がかっこいいというか、スピリチュアルなことを言うだけでからかわれるような時代を経て、心が折れそうなときに、奇跡のコースに出会いました。
それまでも、児童文学などでキリスト教的な考え方には出会っていたし
サウンドオブミュージックを観て「修道女に憧れ」たりもしました。
インドのクリシュナムルティと言う人の本に出合ったのはいつだったか忘れたけれど、子ども達の不登校であたふたしていた時でした。
何度も書いているけれど、宗教とは、家族制度で辛くなった人がいくところだと私は思うのです。お釈迦さまは家を飛び出しているし、キリストも「家族団らん」していたわけではない。家で虐められたり、居場所がない人たちが、たったひとりで向かう場所が教会やお寺だったと思うのですよ。
だから、今、とても不思議なのは、スピリチュアルなことをしていれば、よきパートナーに巡り合えて、幸せな家族生活が送れますよと言ってる人たち。
いや、どう考えてもちがうっしょ。
家族がいなくても幸せに生きる知恵を教えるのがスピリチュアルでしょ。
制度に縛られない自分自身の在り方。親も子も関係ない自分そのものの生き方の話であって、「制度に取り込まれる人間になれ」という話になるのはどう考えても変だと思うんです。
占いやる人が「こんなことしたら嫌われますよ」と脅しているのをよく見るけれど、占い師っていつからがっこのせんせになったのかしらね。
ジプシーという、国をまたいで移動する人たちの中で生まれたものじゃなかったかなと、わたしは思うんだけど。
でもやっと、私のような考えを持つ人たちが、Twitterの中に見られるようになり
なんだか嬉しくなってます。
家族制度を目の敵にするから宗教は国家からにらまれる。
それが本来の在り方ではないのかしら。
どんな状況になっても、ひとりぼっちになっても、神様はあなたのそばにいる。
それこそが宗教であって、「家族円満ありがどう」じゃね~よ(笑)
人は、どこまでもひとりだけど、その「ひとり」を実感している人ほど神様を強く思い描ける。集団の中でうまくやれてるなら、神様などいらないわけです。
制度を否定し、頭の中で壊していいよ~って言ってくれるのが神様。
SWのジェダイたちも家族と共に暮らしてるわけちゃうしね。
ということで。
いよいよ、自分の一番ひっかかっていた場所に来た感じ。
解決方法はいくつかあるけれど、さて、どうしたものかと。
余計なものをばっさばっさと取り払ったら、「やっぱりここか~」というコンプレックスにぶち当たりました。
ラスボスなのかまだわからないけれども。
Twitterの中にものすごく似たような心象風景を持ってる人がいて
その人のツイートを延々読んでいました。
「死にたい」を「生きたい」に変えることがとてもしんどくて
「死にたい」まま生きてていいということに辿り着いたというのが
まさにそれ!と思ったんですよ。
無理に「生きたいです」とかいい子になって返事する必要ある?みたいな。
この地球は生きにくい上に、さらに日本だし、怒ることもひねくれることも禁じてくるような他人がいて、身体は言うこと聞かないしね。
死にたいと思ったままでもかまわないんじゃないかな。
そういう苦労も含めての地球人生が面白くて生きているのだから。
いちいち、スピ的な優等生にならなきゃいけない理由もない。神様は、そんなことで人間を区別したりしない。
この半年でさらに視野が広がった。なんでもありだし、なんでもできる。
今まで知らなかった世界も見た。わたしは、どうしてそっちに行ってないのかとも思った。そこに優等生はいなくて、人間らしい人間がたくさんいて、それぞれが強烈な色を放ってて美しいと思った。
だから、自分のラスボス(?)に出会えたのだと思う。
長男の誕生日はいつも雪。産んだ日のこと忘れない。明日は雪だね。