風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

不自由さがあるだけ

今日は良いお天気でしたね。

ハプニングだらけの本日、午後から百貨店のコスメコーナーでリップをGET。

「お似合いです~♡」と言われてテンションをあげてきました(笑)

 

そして、梅田はさすがですね。美しいネイルに気が付かれ率が高かったです。

 

このブログのタイトルも、そろそろ変えようかと思っております。

スマホでさくっとカード占いをしたところ

 

と出ました。

 

わたしがブログを書き出したのはまさにそこで

「どうして私は、みなと違うんだろう、でも、この感性や考え方がわかってくれる人は、現実にいなくてもネットにはいるんじゃないか、誰かに届くといいな」という祈りに似た気持ちでした。

 

しかし、私の感性も考え方も独特すぎて、うまく伝えられない為、他人との軋轢を書くほかなくなってしまいます。

面白いもので、前回の記事も「これ、書いたらヤバいかな」と思ってすぐに消去しようとしたところ、Twitterで(いつもはそんなにつかない)「いいね!」がすぐに付いたので消去しないままにしております。

 

というわけで、タイトル変更します。乞うご期待。

 

今日は「不幸ではなく不自由なんだよ」のお話です。

 

わたしには、一見不幸だと思われる経験がたくさんあります。

経験を語るだけで「わたしがアドアイスしてあげようか」星人たちの餌食になるんですけど、どうも、その方たちと話をしているとズレルわけです。

そこ、アドバイスされるところじゃないんだよって。

 

わたしは、不幸ではないんです。子どもが不登校であっても、私自身は困ってない。でも、24時間子どもが家にいて、たまに発狂しそうとか、外に出ると「どうして学校に行かないの」と素朴に聴く人がいて心を削られるとか、子どもがひとりで平日に図書館や美術館に行けないってどうよ?と思ったりとか、フリースクールが高すぎて行かせられないとか。生活の不自由はたくさんありました。

 

だから、不自由を社会的になんとかしたいんだってば!

 

離婚したってそうですよね。不幸にしてるのは社会のほうです。

シングルでも働く場所があればいい。保障がもっとあればいい。男が養育費を払えばいい。出会いの場も普通に用意されていればいい。

離婚するのがいいとか悪いを論じている時点で、そういう善悪に絡めとられていて、しかも、結婚しているほうがお得だからと、「夫と仲よくする方法」だの「離婚しないように持っていくのが力量」みたいなアドバイスをされるわけでしょう?

 

子どもを学校に預けてそれっきり。結婚して夫への文句を言ってれば自分で思考することもない家族生活。「不自由がない生活」にどっぷり浸かっていると、見えないことがたくさんあるんです。

 

よく、子育ての悩みというか愚痴と言うか、わたしにすれば「それは惚気では?」と思うことがよくあります。

「夫がね~子どもの○○な部分でめっちゃ怒るんですよ~子どもも悪いところがあると思うんです~うまくやってくれたらいいのにね~」って。

 

あなたはどっち向いてるんですか?とわたしはいつも突っ込みを入れたくなります。

夫が怒ってることをどう思うのか?どうして「観ているだけ」なのか。「観ていれば」責任を取らずに済むんだよね?こどもにも夫にもいい顔するんだね・・・

 

とまあ、見る人が見れば意地悪なんでしょうが、わたしは実は真剣にそう思ってます。

 

世の中の8割のお母さんがこうやって「他人事」として父親と子どもの関係だとか、学校と子どもの関係を眺めて、評論しているだけじゃないかと私は思うのです。

評論するってね、上から目線です。自分の考えに責任を持ってるわけじゃない。

で、それと同じことを世間にもやる。例えば、私のような子どもが不登校である親に対して。評論して、「あなたがこうだからじゃない?」と言うだけ言って逃げる。

 

テレビのワイドショーじゃないんだからな!と思うんだけどね。

それをまあ、アドラー心理学をかじったとか、どこかで聞いた言葉を使って、まるで自分の考えであるかのように言ってくる。

 

なので、話し合えない。わたしがキツイことを言ってしまうか、こうしてブログに書いてしまうか( ´∀` )

 

いつもいつも、子どもの教育も、何もかもを「夫がいてくれること」「教師がやってくれること」「政府がやってくれること」「あの人がこう言ってるから」で「わたしのせいじゃないし」とやってると、人生全体に無責任になるし、「あの人は可哀想よね」と決めつける思考にまっしぐらになるんじゃないのかと私は思うわけです。

軽く人を傷つける人になる。総じて「優しい人たち」なので、悪気はゼロです。

そして、決して(自分が悪者になるような)「悪口は言わない」ので、善人であります。

だからこそ、私がどうして傷つくのか?が誰にもわからないんだろうと思います。

 

突っ込まなくていいじゃん、と言われればそうだけど、「お子さんどうなさってるの?」の質問の流れで正直に答えるだけで、突っ込みどころ満載の会話になること間違いないので、私自身も、常に「どうしたらこの流れを変えれるか」に必死になってますよ、実は。

 

不登校の親と子の居場所をと思うのは、多少でいいから、生活の不自由を取り除きたいからというのがあるんです。心がどうとかじゃない。とにかく、わかってくれる人のところで「安心して」「数時間でも」過ごせること、が大切。

 

アドバイスされないで、ただ話を聞いてもらって、本があって、子どもと離れる時間が持てて、カウンセラー以外の人としゃべる。それだけで一ヶ月が変わる。

 

私が見ている世界は、そういう世界です。

 

不登校を選んだんでしょ」「お母さんも自分を生きて行かなきゃ」とか、いらない。

 

子どもに発達の問題があっても、やれ訓練だ、カウンセリングだ、なんだって必死になるばかりだと疲れますよ。しかもそれは「子どもがインディゴなんじゃない?」「世の中を変えるためにやってきた子なんだよ」(宗教だよね~)で救われる問題じゃない。ほんとに、言うだけはタダだよな・・・。

 

頭の中をお花畑にするのは、自分だけにしましょうねって話で。

現実を生きている自分を少しでも助けてくれる人とつながらなきゃ、心が死にますというのが、なぜわからないかがわからないけれど、体験してないということは、そいういうことなんだろうと思います。

 

今日も今日とて、ニュースでは、被災地の成人式をとりあげては、子ども達に「少しでも恩返ししたい」と言わせてる。今もきっと、不自由な生活なはずで、それこそ、メディアがチャリティをやったらいいのに、苦しい生活の人たちに「感謝してる」と言わせるその姿勢に、わたしは傷つきます。

 

「他人のことだから、傷ついてる場合じゃない」とか「ニュース見ないでこころをはっぴーにすることで救われる」と思ってる人はそうしてください。

そういうことに疑問を持ちつつ、常に社会情勢を見ながら、自分自身を整えて、「何ができるか」にアンテナを張る。自分のやろうとしていること、やりたいことと、少しでもコラボできる機会があればいいと思う。

 

羽生選手のように「自分の世界をとことん追求する」ことと「被災地を忘れない」ことは両立する。

 

子どもを手放して、やりたいことが徐々に見えてきた今日この頃です。

そしてやっと、わたしも生活が安定の兆しを見せてきました。焦りや慌てる感覚が減ってきました。生活が落ち着かないと、心もどうしても荒くなるし、みんなが安定して暮らしているのが羨ましくもなります。そういう自分を「しょうがないね」となだめながら、暮らしているところ。「荒れるな」と言われても、今は無理でした!ってことがたくさんありました。

 

そりゃ喧嘩っ早くなるわなと、地震後3カ月で起きた様々なトラブルを思い返すとそう思います。普通じゃなかった、暮らしも精神も。当たり前です。

こんなに変化して、よく仕事に行けたよね。

あの時に「あなたはまだ、疲れてるんだからゆっくりして」「代わりに折衝してあげる」と申し出てくれる人がいれば、そして、「今のあなたはいつものあなたじゃないよね」とわかってくれる人がいれば、違ったかもしれないと思うけど、いまさらだけど。人は、相手の状況を理解できないものである、ということを痛感したこの半年でありました。

だから、同じように接してくれる友達の存在がどれだけありがたかったか!

私が少しぐらい荒れようが泣こうが、側にいてくれた。

これはもう、一生忘れないです。

 

私が見る、私の世界。

私の大好きな世界を、ここでたくさん伝えていきます。

インスタグラムでも、私の「好き」を撮った写真を載せています。

「好きなこと」と「社会への独特の視線」を共に持ちつつ、それが私らしい表現であるようにと願って。青い鳥はもう見つけた。

 

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