風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

行動を見ないでって思うんだ

少し車で走ると箕面の山に行ける。

箕面はセレブの街だ。

おしゃれなお店がいっぱいある「はず」なのだが

まだよくわかっていない。

 

大型ショッピングモールに行ってもどうせ駐車場代はかかる。

だったら、箕面駅の駐車場に停めて歩くのはどうだろうと思いついた。

 

なかなかいい感じである。

まるで住んでるかのように散歩することができる。

 

ここんとこ、同じカフェにしか行けなくて困っていたので

新しい場所を開拓できそうだ。

 

箕面が気持ちいいのは、やっぱり山がすぐそこにあるからだろう。

山の空気がほんの少し街に降りてきている。

 

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さて。

 

私が女性を苦手とする理由は、おそらく母親にある。

ということは、以前からわかっていたけれど、一人になってようやく

深く自分に潜れるようになってわかったことがあった。

 

母親はあらゆる期待を私に持った。

少しだけ「できる子ども」だったことが災いしたのだろう。

音楽に縁がなかった母は、私に音楽をさせたがった。

公文式に幼稚園から通わせて勉強をできる子どもを求めた。

妹や弟はすぐにギブアップして好きなことをやっていたけど

私にはその選択肢は全くなかったのである。

 

母親が見ていたのは、私の結果であり、行動だけだった。

心理学を学んでいた癖に、心なんて一度も見ていなかった。

それが高校生の時にはっきりわかったから、私は母を頼るのを一切やめたのだ。

 

学校の教師も結果と行動がすべてで、子どもの心に注意を払う人などいない。

暴力行為をする子どもにだけは対処しようとしていたけれど。

 

だから、ママ友には特に馴染めなかった。

母親というものは多かれ少なかれ、子どもの結果を尊重する。

周りと比べてほっとしてみたり、行動を見て判断したりする。

それがある程度普通なのかもしれないが

私の母親が極端にそうだったせいで、私はちょっとでも

子どもの心に配慮しない言動をその人に見てしまうと

心を開けなくなってしまうのだ。

 

なんでわかんないんだろう、なんで想像できないんだろうと思うと

私自身が悲しくなってしまう始末である。

それをごまかしつつ息子たちの保育園生活を応援するのはなかなか大変だった。

 

私の母親が極端だっただけで、他の人たちに悪意がないこともわかっている。

母親にだって悪意はなかった。

とにかく目の前の子どもが、自分が敷いたレールの上を必死で歩いているのを

「わたし、うれしい」だけで見ていたのだから。

私がどれだけ大変な精神状態であったかを、想像するだけの何かが決定的に欠けていただけなのだ。

 

「これできたのね、じゃあこれは?」と次々と課題を課され

わたしはそれをクリアすることだけの子ども時代だった。

系統だって課題を出されたわけじゃない。

単なる気まぐれに過ぎない。

自分が気持ちよくなるために、子どもに「やらせること」が娯楽だったんだろう。

 

親の楽しみのために、私は、ピアノの前で抑うつ状態に何度も陥っていた。

 

そういう部分はいっさい彼女の視野から消えていて、記憶からも消えている。

人間は見たくないものは見ないで済むのだ。

 

行動と結果だけを見ていると「あなたはピアノが好きなのね」「勉強が好きなのね」と思われてしまう。そうじゃない部分は認識されない。認められない。

私はいつも願っていた。

いつか、私のことを理解してくれる人が現れますように、と。

 

だけど、他人は他人である。わかるわけがない。

しかも、母親と同じように「わたしはわかってるよ」というフリが得意な人を呼び寄せてしまう。一瞬だけ期待するのだが、すぐに絶望に変わる。これが私の付き合い下手なところだ。

 

だから、男のほうが楽だ。

最初から、彼らに期待などないし、しかも、男が見る「わたし」は、これまで誰も受け入れてくれなかった「わたし」だったりする。

最低な面を見せたところで、相手は一ミリも攻撃しないし、がっかりしないし、「相性合わなかったね」で終われるのがお互いに楽なのである。

 

「がんばってるわたし」しか見てない人と付き合うのは大変すぎる。

最低ラインの私を理解できる人と会いたい、と思う。

 

男はいつも最低ラインの姿を見せてくれる。だからこちらも安心できる。

お互いの醜さが入り口になるのは、私にはほっとするところだ。

夜の街がなくならないのは、いつも醜さを認めない昼の街があるからで

どこにも安らげる場所がないからだろう。

飲んでぐだぐだになっても許される街、下ネタを繰り出しても昼の街に戻ればその姿も消せる。それは、ずっと突っ張っている人のためにあるんだよね。

 

親が教師や公務員だとどうしても、家の中でも落ち着かない。

常に評価され、結果を求められ、その割に褒められることがない。

真綿で首を絞められているような感覚は、他人と一緒にいても癒されることがない。

 

みんないい子が大好きだし、「わたしが不安にならないように、心配しなくていいように、いい子でいてね」って友達にも思ってるでしょ。

スピもそのひとつだってわかったから、私の居場所ではなくなった。

 

私は、お酒と薬を一緒に飲んでひっくり返ったことのある人間で

そこからここまで立ち直ってきたけど

それをわかってくれるのが、男性だけってのがまた面白い。

きれいきれいな人生を、子どもや他人を縛ることで得てきた人たちには

たぶんわかんないだろうって私もまた、どこかで人間不信を貫いている。

 

キレイキレイな人たちは、私の壮絶な体験すらも娯楽にしちゃうしねえ。

 

だから、言いたくないのよね。ほんと。

 

期待に潰れそうになる気持ちって、やっぱり男のほうがわかってくれやすいのかも。

戦争を生き抜いてきた同士みたいな。

だからこそ、なんでもないことで笑いあえる、なんでもない趣味の話で盛り上がれる。

ってことなんじゃない?

 

わたしのことを「くだらね~けど面白いやつ」って思ってくれるのが一番ですよ。

 

かき氷食べたいです。