「好き」は見えない
幼少期にピアノを習わされたことで「音楽が好き」と思い込んだ。
ちょっとだけ成績が良かったことで「勉強が好き」と思い込んだ。
思い込みは大切だ。
おかげで、今も音楽は欠かせないし、歌を覚えてカラオケで歌えるし
勉強も嫌だと思わずに取り組むことができる。
けれど、それ以外の「好き」を私は見ないふりをしてきた。
「私に似合わない」「私はできない」という言葉と共に葬ってきた。
それがどうだろう。
無視してきた「好き」がムクムクと湧いてくるのだ。この歳になって。
ファッション、インテリア、メイク。
「いまさら」感満載なのだけれど、どうしても譲れない。
「わたし、馬鹿だから」と勉強に手を付けようとしない「食わず嫌いの人」が多いなあと思っていたけれど、それはこういうことなのだと思った。
「あなたにはそういうの、似合わないから」「あなたはそっちじゃないから」と他人から植え付けられた価値観によって、自分の好みの範囲を狭めてしまった。
手を出したら恥をかくよという呪いがあった。
小さい頃から習っていて得意なものを「好きです」と言ってれば恥をかかずに済む。
それだけのことだった・・・。
習字を習っていた時間も、墨で絵ばかり描いていた。
字を書くのはつまらなかった。
そういうこと、誰も認めてくれなかったことを思い出す。それだけ、私は、「優等生」であることを自分に課していたのだと思う。
優等生でなければ生きていけないと思っていたから、劣等感を感じるものは捨ててきた。
だけど、自分自身を取り戻した時、私がやりたいのは、お利口さんなことではなかった。胸が躍り、わくわくすること。誰にも見られたくない恥ずかしさと共に。
どんどん服装が変わり、メイクも変わっていった。一ヶ月に一度、特別な時に着ていた服を、今では日常に着るようになった。
若い頃は地味で、ジーンズ履いて、お化粧もしていなかった。
もうパンツルックには戻らない。
どんなに「わたしはこんなもの」と制限をかけていても、「こんな風になりたいな」「これ、素敵だな」と雑誌や漫画、ドラマで食い入るように見てしまっている自分がいた。それは理性で止めれるものではなかった。そのおかげで、脳内にたくさんの「好き」なイメージができあがり、「オシャレですね」と言われるような自分に変わっていけたのだと思う。
「好き」は意識していない部分にあって、自分からは見えなかった。
だけど確実に育っていた。
小中学生に「好きなことはなに?」と聞いて「将来なりたいこと」を決めつけるのはとても罪だと私は思う。
自分の「好き」なのか、誰かに褒められることを「好き」にしているのかは、大人になるまで区別がつかないし、大人になっても自分の「好き」を隠す人は大勢いる。
また、あるテレビ番組で、霊能者が芸能人に対して「もう、あなたの年齢で好きなことをしても時間がないです」と告げていて絶望を感じたことがあった。
いつからでも、どこからでも、好きなことをやっていいと私は思うし、それが成果として残せるかどうかはまた、別の話だ。
成功とか、成果とか、そういう面ばかり強調されるから、好きなことに気づけない。
気づいても「やろう」と思えなくなってしまう。
自分がそういう、他者からの制限を受けていることに気が付いていくといいなと思う。
そして、人生のどこかで、恥ずかしがらずに、「どうせわたしなんて」という拗ねた態度をせずに、好きなことを表現していけたらいいなと思う。
わたしはこれから、あらゆる面でこだわっていくつもりだ。
自分が納得する、素敵なものに囲まれていくと決めた。
当然、イケメンしか配置しないよwww
って思ってたら、叶ってきたんだから、嘘じゃないから。
そうそう、私はアメブロをやめたのだけど、アメブロを抜けていく人が増えてきたことに驚いている。違うブログにしたほうがいいとアドバイスをしてくれた人に心から感謝している。