与えなくていい
ちょっと過激だったでしょうか。
昔はよく信じてたんですよ。
「現状を変えたければ自分から与えればいい」って。
私が今思うこと、それはね、自分が気持ちよくなるだけ。
与えれば返ってくるものが必ずあります。
嘘でも「ありがとう」とか。
だから、与えるのが好きな人になっていきます。
私が世の中を見ている中では、
与えるのが好きな人は、「怒り」や「辛さ」も他人に与えちゃうんだなあ。
特に、人の前に立って「与える立場」になっちゃうとね。
自分が思うこと、気づくことが全部正解で、目の前の「生徒たち」に「言ってあげなければ」と思うみたい。
検証する前に、確かめる前に、個人的な経験すぎるかどうか内省する前に、ばーーーーんっと出しちゃう。繊細な生徒は、それを「受け入れてあげなきゃ」と思っちゃう。
人は自分を表現するだけでよくて、その表現を見て、何かを感じたり、自分のものにすればいいのであって、他人から「与えられる必要」はあまりないのではないかな。
与えてくれる人が側にいると、成長しないから。
つまり、そこにあるのは、いわゆる「賄賂」であって、愛ではないということ。
私は今、食べることが好きで、自分で美味しいものを作れるので、土日は必ず料理をするのだけれど、それは単なる表現だから、「作ってやってる」とは思わない。
自分が自分に与えているご褒美を、たまたま息子と一緒に食べてる。
別に息子に与えるつもりはないのでね。
他人に与える暇があったら、自分に与えればいいんです。
そして、他人から何かが欲しいなあと思ったら、伝えればいいし、伝えてもわかってくれないような相手と一緒にいるの?ってことだし、そこでまた「自分から与えて」まで、相手との関係を賄賂で変えたいのか?ってことです。
相手は、言葉でもものでも、もらえれば嬉しいよね。
そりゃ空気も現実も変わっていく。
でもそれは、長い目で見れば、「おれって与えてもらえる人なんだ」と勘違いさせる種でもある。ほほ~相手のことを考えなくてもいいんだ~空気を良くするために、お前が何でもやってくれるんだな~になります。
その結果、いばりんぼのおじいさんを生産する。
いい家族、いい夫婦って妻が与え続けてる風景に見えませんか?
この国では、男が反省するという文化がありませんから
家の中で「雰囲気を保つため」には、最終的に妻の諦めや、妻の「とりあえずの努力」が必要なんです。でもそれは、別に、哲学でもないし、宗教でもない。
気づきでも何でもない。
王様を持ち上げていれば丸く収まる、裸の王様をちやほやしていれば平和になる、そういうことです。
王様は裸ですよと教えたり、王様もちょっとおかしいのではないですか?と進言するような女性は嫌われるし、結婚できないぞ、いい男は寄ってこないぞと脅されてる。
それが今の恋愛マニュアルになります。
しかも人生哲学だと思ってる人も多いみたい。
裸の王様を責めてもしょうがないですよ、変わらないんだからってあきらめることを教えてる。そして、「あなたから王様にご褒美を挙げたらいいんですよ、そしたら、王様を責めて現状が打破できないのも変わってきますから」・・・コトは進みますけどね、王様は裸のままいばったままですね。そして、そのせいで不快な思いをすることは減らないですね。
もっともっと自分に与えましょう。
不快な思いをしない生活を目指していいんじゃないでしょうか。
自分をすり減らす必要などない。
他人に与えたがる人は、ほんとに怒りも思考も与えてきます。
拒否することもできないくらいに。
そして、与えてもらいたがってる。すごく。
私は無闇に与えないので、私を嫌がる男性は昔から一定数いるけれど
私の表現することを喜んで受け取ってくれる男性がいて、そういう人に愛されれば私は満足するみたいだから、これで良かったのだと思う。
優しさとか思いやりとか、そういう言葉とか、態度とか?
それは与えるためにあるのではなくて、その人の表現として「ある」んだよ。
もらえるんじゃなくて、表現された「それ」を受け取るんだよ。
自分は自分のままでいい。
他人に与えようとしなくていい。
自分に与えていればいい。
花はただ咲いているだけで、私たちに何かを与えてる。
人間も同じだと思う。
「与えよう」としてくれてるわけでもないし、花が意思をもって「与えたおかげで人間たちが変わってくれた」なんて期待もしない。当然、それを「気づき」とか言わない。
集合意識だとかなんだとか?そういう単語を使っておかしくしたりしない。
ただ咲いているだけだよ。
私たちも、咲こうよ。花を咲かそうよ。
自分に肥料を与えて。