小さなうそ
台風がくる。
また、今日も暑かった。
蝉の声が聴こえなくなった。
ある本を読んで思ったことをひとつだけここに書き残す。
女性性という言葉が言われて久しいが、誤解されている部分も多い。
女性性という言葉と、「女性だから育児ができるのだ」とか「女性、男性にしかできないことがある」という性差別とごっちゃにしているのが、ある人の著作から垣間見えた。
フラダンスやベリーダンスで、身体の中から女性としての美しさが出てくるのはわかる。
けれど、そのような女性性と、フェミニズムは両立するのである。
男性と同じ仕事ができて、同じ給料をもらうという当たり前のことが認められていない日本なのである。農村ではいまだに、女性が農作業も介護も育児も担っているという。
そのようなおかしさを正していくことと、女性として美しくなることは当たり前に両立する。
「女性としての仕事がある」ということと、社会で女性だからと不利な目にあうということは、全く別世界のことである。社会制度の中で、すべてに対等であっても、男性と女性の良さが失われることなどない。逆に、女性だからと何かを失うことが多すぎるのであれば、女性が女性として輝くこともまた難しいはずなのだ。
女性が自己肯定感を失わないような環境を作るのも、私たちの仕事ではないのだろうか。すべてを個人に還元して、自己責任だと言う前に。
美しいものがあることと、社会に差別がないことと、どっちも当たり前にあっていいじゃないか。一人でも、意味もなく酷い目に遭わされる人が減ることを祈るのは、とても美しい行為だと私は思う。
さて。人はどこで嘘を覚えるのだろう。
幼い頃に親にほめられたくて?友達に馬鹿にされたくなくて?
小さなうそをつきながら大人になってしまったら
元に戻れなくなってしまうんだなあという事例を目にしてしまった。
私にはその嘘がはっきりと視えたのに、そのご老人は、ご自分が嘘をついていることに全く気付いていないし、気づかれているとも思っていない。
よっぽど突き付けてみようかと思ったけれど、あまりにも切なくてやめた。
元校長という肩書は、「これぐらいの嘘は見破られないだろう」と、若い人間を見くびることも無意識にできるらしい。本当に悲しい。
すぐそこにほころびがあるというのに。
けれど、誰もが小さなうそをついているのかもしれないと思う。
もっとも難しいのが、自分に対してついている嘘で
私は自分をずいぶん騙してきたと思う。
何が好きで、何が嫌いで、どうしたいのかがわかっていなかった。
ごまかすのを止めた時、未来が失われたような気がした。
でも、未来も希望も失われていなかった。
嘘をつき続けて信頼されない自分でいるより
自分自身だけは裏切らないで生きていければ本望である。
好きなことに降参し、無駄なことに時間を費やし、ダメなままで生きることを許していく人生でいいのではないかと思っている。
生産性もなく、お金にもならず、注目されなくても
注目されたいと吐くほど願い、お金が欲しいと必死になって、何かを生み出したいと願い続ける自分と共に、生きるしかない。
自分は温厚で仕事熱心で、誰にでも親切だなんていう嘘をつき続けるほど傲慢にはなりたくないと思う。
今日はがっつり夕食。白ご飯は神だ。
食べるラー油が美味しすぎて、豆腐にもご飯にもかけて食べた。
地震から以降、食事を作るだけの気力がなくなってしまい
外食が続いた。自分はもうダメなんじゃないかと思ったけれど
ご飯を作れる自分に戻った。
いつか雨は上がる。
台風が何もせずに通り過ぎて行ってくれることを祈る。