かわいそうな私を続けなくていい
これもどれも人それぞれで、正解などないと思うのです。
GWです。
同じ愚痴を延々繰り返したくない。
なんとなく、成長しない自分がそこにいる気がするからです。
私は、向精神薬を断薬しました。
同じことを書いている記事を見つけて、やっと勇気を出して書くのだけれど。
薬を飲み続けることの意味がわからなかったからだし
「薬を飲んで一人前」ってなんだよ!と思ったからです。
勝手に「世間の基準」を当てはめられて、「当てはまるように薬飲んでね」なんておかしいよ、私は薬に頼らなくても自分が生きる世界を創るよ、と。
それと同じことを、不登校の親の会でも感じました。
同じところで悩み続けている人がいました。
十年以上、ぐるぐると。しかも、そこから出る気配すらない。
ああ、私はここにいられない、と思って去りました。
子どものことだけを悩む人生を生きるなんてやってられない。
私は自分の人生を生きたい。今の子どもの悩みには寄り添いたいけれど、一生悩み続けるなんてまっぴらごめんだと。
不登校の親の会で出会った人たちとは、今では交流がありません。
だけど、会えば嬉しいと思うし、近況を話して盛り上がれることは間違いありません。
卒業した感じ・・・というのかな。
お互いに次のステップに行ったから、会い続けなくていい。
「そこ」に留まるか否かは、適性もあるのだろうし、お役目もあるのかもしれない。
私がやりたいことは、悩み続ける人に「わかるわかる」と言い続けることではなくて、話を聴きながらも、今の楽しいことに目を向けたり、悩み以外のことをしゃべる時間を創ることです。
私にも、夫や子供に対して悩んだ時期が長く、「向き合わなければ」と必死になったこともありました。けれど、どうにもならない人に対して「向き合う」よりも、自分に向き合って、自分との付き合いを学んだほうが楽しいし、意味がある気がしました。
「子どもをどうにかしたい」「夫をどうにかしたい」と悩んでいる人はたくさんいます。
自分をどうにかするほうが面白いんやけどな。
「どうせこんな家族だし」「今の、とりあえずの幸せで良しとするか」も、ありだとは思うんですけど、本気でそれを選んでいるのか、ただ変えられないからしょうがないからそこに留まっているのかは全く違う。
わたしは、自分が何をしようが、どうなろうが、変わらない息子と夫の姿を見た時にしっかりと絶望した気がします。「私が変わればあなたたちも変わってくれるかしら」という期待を手放そうと思ったんです。
どうなっても一緒なら、私は好きなように生きようと。
いやいや、それが当たり前だろうって今なら突っ込みますけど。
当時は必死だった(笑)
んで。色んな人が色んなことをいうわけです。
困難なことを乗り越えた人ほど、強烈な個性で、強烈なことも言ってくる。
常識人は常識ばかり突きつけてくる。
何度も凹んで立ち上がってきました。
結論はひとつ!
わたしはわたしだから(*^^)v
あちこちで「かわいそうグループ」を作ってる人たちの輪の中に入りたくても入れなかったし、私だけが異端に思えました。
職場でも「我慢してやり続けてるグループ」から見ると「どうして我慢しないのかしら」と思われて弾かれました。
単に「私の場所じゃなかった」だけでした(≧▽≦)
今では、私が少々ぶっ飛んだことを言おうが、「私もそう思っていたよ」とこっそり賛成してくれる人が出てきたり、私の居心地のいい場所が増えたりしています。
居場所に合わせて「しんどいしんどい」言うよりも、自分が居心地のいい場所を創ればいいのでは?
それには、少しだけ無理をして、少しだけ頑張って、「かわいそうな私」を脱出することです。
前に進もう。後戻りしても。