風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

世間的に「悪い女」がかっこいい

台風逸れてよかったです、大阪。

 

腐ったミカン世代が実感したのは

ヤンキーというのは、最後には権力にヨシヨシされて追従するということで

本当に突っ張って生きている人は

ヤンキーにならないのでは、という話。

 

単に反抗するだけで「何かやった気になる」のは

幼児と同じなので

精神力を使って同調圧力に負けないような人になるには

そこからさらに修行が必要です。

 

何が悲しいといって、ドラマの中で不良役を演じた人が

権力者におべっかつかうような人になってしまったこと。

不良=悪い=でもかっこいいと思われた時代は遠くなりました。

 

いわゆる「悪い女」と思春期に呼ばれたような女性たちは

なんやかんやいって、男性中心のヤンキー社会に取り込まれ

男に従い、男をたてる女として生きていくわけで

そのどこが「悪い女」なのか、私にはまったく理解できない状態になったわけですが。

 

普通に働いて生きていて、勉強して社会のことをよく考えている人のほうが

ずっと「男に従わないけど楽しく生きてる」男にとって都合の「悪い女」なことがよくあります。

 

わたしはそっちのほうがかっこいいと思うし

みんなそうなればいいのに、とも思います。

 

DV男に我慢したり、浮気されても耐える女をやってる場合かって。

 

しかもそれを、他人から救ってもらわない限り自分から動こうとしないところとか。

 

なのに、不倫する女性を叩いたり、理不尽なことと闘っている女性を揶揄する女性になってしまうのは悲しいことじゃないでしょうか。

 

女も、生きたいように生きればいいんです。

 

道徳を持ち出して他人にとやかく言いたいのなら

それこそ、偉い人たち全員に噛みつくぐらいの道徳と正義を持ったらいいのに

そこはやらないんだよね。

 

いつまで演歌女をやってるんだか。

 

ものわかりのいい女をやってて、満足したり幸せになることなんてないと思うし

死ぬまで自分の欲に気づかずにいると

他人が欲を持っていることや欲を見せることに拒絶反応を起こしてしまうと思う。

 

どれだけ好きなように生きるかが私のミッションなんだけど

我慢してる女の言い訳ほどカッコ悪いものはないです。

 

どこかで自分をひけらかさないといられない「小さな我慢の積み重ね」があって

そのために無害と思ってる自分から毒が染み出しているのに気づかない。

 

「迷惑をかけない私」がどれだけ毒を撒いてるか。

それならまだ迷惑をかけられたほうがずっとマシだけど、と思ってる子ども達はたくさんいるに違いないと思います。

 

そうそう、迷惑をかけないという罠について話さないとね。

「迷惑をかけない」意識で生きていると

周囲の人たちにもそれを強いて生きていくことになります。

「夫や子供が他人の迷惑になるんじゃないか」と常に見張らないといけなくなる。

 

それって警察っぽくないですか?

 

病気になったり、精神的にヤバくなったり、不登校や引きこもりになった時に

「迷惑」を基準で考えたら生きていけませんよね。

だから自殺につながるんじゃないかなあ。

 

迷惑を恐れる社会は怖いです。

 

ばれない浮気であれば誰にも迷惑かけてない、と思い込んでる男女はとても多くて

迷惑を基準にするから、そうやってこっそり浮気したり、目の前のパートナーと向き合わなくても「迷惑をかけていない」と思って安心してしまう。

 

なんだろね、これ。

 

わたしは、そういう狡さが好きではないので、もっと好きに生きている人たちと付き合いたいと思っていて、それはもう、世間的には「悪い」と言われてることであっても、「迷惑をかけてないしいいんだ」と思って自分を正当化してる人より潔くて良き。

 

我慢は誰のためにもならないので。

それが美徳だと思ってる人には申し訳ないけれど

それは自己満足の世界だと私ははっきりと感じてる。

 

権力者になれば我慢しなくていいんだ、男なら我慢しなくていいんだ、金持ちなら我慢しなくていいんだ、だから、そうなりたい!っていう動機が凄く多い気がするからさ。

権力なくても男じゃなくても金持ちじゃなくても我慢しなくていいんだよってことを

言っていきたい。

そしたら、権力者や男や金持ちのやりたい放題がなくなるんじゃないか?そこにうまみがなくなれば、本当にしなきゃいけないことをするやろ?違う?

 

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自分を喜ばせて

連休が終わってしまった。

無職なのに、連休のおこぼれを預かって

とても面白い4日間を過ごした。

 

わたしは、自分自身がよくわからなくて

世間が言う幸せとか、世間の評価について

勉強してきたけれど、

結局よくわからなかった。

 

人からは、迷子になってるとか、籠の鳥だとか

言われることがあったけど

私自身振り返ってみると

ただこの世界というものを知りたい、わかりたい、みんな何を考えてるの、何が幸せだと思ってるの、ということについて、ひたすら実験と観察を繰り返してきただけな気がする。

 

人生の半分をかけて、理解しようと頑張ったけれど

結局わからず(笑)

もう自分を喜ばせて生きていくことに決めた。

ってか、それしか残っていない。

 

他人のいう常識や、世間で言われてる常識に囚われない生き方というものをやってみようとしたけれど、それで成功したところで、自分自身がちっとも喜べないということを学んだ。

 

いい高校に受かったところでなに?みたいなことがずっと続いた。

 

それよりも、自分が納得できて、誰からもあれこれ言われないところで決めたことというのは、もう何が起きても全部〇にしかならないということがわかった。

 

心から願ったことは必ず叶うんだ。

 

自分を犠牲にしない「願い」を持つのは、女性には難しいかもしれないが

それでも願わないことには始まらない、と思う。

 

今年の初めに、とても辛い出来事が起きて

そこから脱出するためにあらゆることを試した。

何が悪かったんだろうと何度も振り返ってみた。

 

そうじゃなかったんだと気づいた時から変わった。

 

その学びで得たことは、「こうあらねば」を解放することだった。

人と人は親密でなければならないとか、心と心がどうだとか

愛はこうだとか、そういうもの全部が取り払われた。

 

わたしは、わたしでしかないのだ。

わたしが感じることがすべてだとわかった。

 

どんなに歪んでいるだのなんだの言われたところで

それを誰かがまっすぐにしてくれるわけでもなければ

まっすぐが正解でもない。

その人の「まっすぐ」が歪んでいるかもしれない。

 

心理学や精神を扱う界隈には「人間の心や態度に正解がある」と思っている人がいて、「歪んだ人を治さねば」と意気込んでいるところがある。

私から見て、歪んでいない人なんてどこにも存在しない。

そういう仕事をしているからって、その人が間違わないわけもない。

歪んだ人が、歪んだ人にアドバイスしているのに、誰も何も思わないのがとても不思議だ。

 

この世にあるのは、「自分こそがまともだ」と「思っている人」が一般化されているだけであって、それも時代によって変わる。

で、誰もがその「自分こそがまともだ」の枠に入りたくて、ある人は大企業に入り、ある人は起業家になって稼ぎ、ある人は心理学や宗教を学んで悟ろうとする。

そこからはみ出した人を「マイノリティ」の身分に、経済的にも落とし込むことによって、「私はまとも」の感覚に皆を駆り立てているんじゃないだろうか。

 

そういうものから降りてみたらいい。

乗ってもいいけど、降りてもいい。

そしたら自分だけの喜びが見えてくると思う。

 

それは、誰かに見せるものでもなければ、言いふらすものでもない。

静かに自分の中で熟成していく喜びだからだ。

 

いつかそれが芽吹くことになるかもしれないが

それもどうでもいいと思うくらいの。

 

自分を喜ばせることは誰にもできない。

そしてそれは誰にも認めてもらわなくていいんです。

世の中に溢れている方法論をぶっ飛ばすような自分でいよう。

 

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記憶という娯楽

連休のショッピングモールはあまりにも人が多すぎて

コロナなどなかったかのように、でも、マスクで防御しているから大丈夫ですと言いたげな人たちで溢れていた。

うっぷんを晴らすかのような人込みに驚きながら

私は、自分の買い物を済ませることと休憩することで精いっぱいだった。

 

さて。

そんな中、必死で歌を覚えるという毎日を過ごしている。

私の欲望ははっきりしている。

「何も見ずに歌いたい」ただそれだけのことである。

 

メロディや歌詞を頭の中に入れて、そこから取り出して歌うことの楽しさったら

何にも代えがたい。

 

覚えたくて必死になっている自分を

私は懐かしく思いつつ、止められないでいる。

たぶんこれは依存というものだ。

 

ソラで歌えるようになるまで続けるのはわかりきったことだけど

そのせいで、家事や用事がおろそかになる。

 

昔から暗記が好きだった。

文章を覚えることと、歌詞を覚えることは似ている。

覚えてしまえば自分のものになる。

その言葉を唱える時に心が入る。

これは快感だと思う。

 

文字がない時昔、物語は聞いて覚え、口で伝えられてきた。

それもきっと娯楽だったんだろう。

 

身体の中に入ってしまった言葉が

自分の中から出て行こうとする。

まるで自分が体験したかのような錯覚に陥いることもできる。

 

小説を読む以外に、合唱団にいた6年間で覚えた歌の数々が

私の中にあるのだろう。

ヤマハ音楽教室で毎月配布されていたレコードもすべて覚えたし

父が持っていたフォークのレコード全集も覚えた。

 

歌をやってる人は、歌詞を心と頭に蓄えながら生きているんだなあと改めて思う。

 

それが現実の経験と合わさった時、鳥肌が立つような不思議な感覚がやってくることもあって、だから歌はやめられないのだ。

 

歌を覚える時、みんなどうしているのだろう。

私は、まず耳コピをして、わからないところを楽譜で追って、ある程度メロディを覚えたら歌詞を徹底的に覚えることにしている。

今は、最後の歌詞を必死で覚えているところ。

 

そこだけは、年齢とともに覚えにくくなっているようで

だけど、すぐに覚えられないからこそ、歌詞の世界観を思い描くことで定着させている感覚がある。

 

脳の中に新しい回路ができていくかのように、覚えていく自分が好きだ。

何より歌って楽しいし。

そして、すべてひとりで完結する楽しみであるということ。

誰に迷惑もかけないし、ひとりでできるし、ひとりで楽しい。

勉強が楽しかったのも、その部分が大きいと思う。

 

記憶する、推理する、という遊びを

私は3歳で覚えた。

放っておかれて暇だったので、童謡のレコードをすべて覚えたことから始まったのだと思う。それだけは親に褒めてもらえた。

 

どんな環境から何が生まれるか、わかったもんじゃない(笑)

 

どこにも行けず、誰とも関われず、孤独な子ども時代にも

音楽と本、という友達がいた。友達を記憶して、いつまでも楽しみたいというのは素直な流れだったんだろう。

 

そういえば、今も、楽しかった記憶を反芻して遊ぶことがある。

二度と会えない人であっても、別れが納得できなくても

それは忘れて、楽しかった記憶だけを取り出している。

だからこそ、会ってる時の瞬間の楽しみが、私のすべてだ。

 

関係性を長く続けてどうのこうの、というよりも。

素敵な瞬間の積み重ねを大切にしているのは、そこから来ているのかもしれない。

 

不快な記憶が何度も蘇るという癖も当然あるけれど

記憶できるという能力のおかげで、生き延びてこれたのだろう。

 

目の前で教師が暴力をふるっている光景があっても

私の脳は過去や記憶をたどることで、その目の前の「見たくないモノ」を遮断することができた。

好きな歌を脳内でリピートすることで、不快な状態を耐え忍んできた。

 

覚えたものが自分を助け自分を励ましてくれる。

だから、覚えることは苦にならない。

 

ちはやふる」で百人一首を友達にしている「しのぶちゃん」というキャラがまさにそうで、だから私はこのコミックが大好きなのだけど。

 

脳内に友達を作ったことがない人には理解できないことかもしれないが

現実だけでは耐えられないような時に

ものすごく役に立つ。

 

本を読め、ということはまさにそのことで

成功哲学をいくら読んだって凹むだけだけど

シャーロックホームズや赤毛のアンを頭の中に住まわせたら、

人生は楽しく豊かなものになるんだ。

 

人生が寂しくなることなんてない。

 

たった一人になる夜も、寂しさに震える夜も

誰かが生み出してくれた言葉に心を暖めて過ごすことができるよ。

 

記憶は楽しい。

 

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色んなガチャありますね。

いいお天気続いてますね。

お出かけしたくなるけど、どこもいっぱいだろうな。

コーヒーの生豆だけ買いに行くかもです。

 

さて。

 

あちこち相談するのが好きなわたし。

その中でどうしても後味の悪い人もいます。

昨日もたまたまそういう文章が送られてきて

これまでは、自分の何かが問題なのか、相性なのかと悩んでしまっていたのですが

よく考えてみると、「相談者としてまずいことを言っちゃってる、この人」ということがやっとわかったのです。

 

相談する側になればわかると思うのですが

別に、相手に対して「そこまで」期待していない。

それは、学生時代に教師に対して、勉強は教えてくれるけど、教え方イマイチだなあとか、教えている内容はいいけど、雑談嫌いだなあ、人として尊敬できないなあと思ったのと似ています。

 

霊感があるからって、伝え方がパーフェクトな人はいないし、それこそ雑談的なものの内容が「あ、この人と価値観合わない、無理」ってこともたくさんあるわけです。

だけど、なぜかそこを認められない人が多くない?

 

具体的に書きます。

「家族愛がテーマです」と書いてありました。(うん、わかるよ、わたし、家族に縁が薄いしね。)

で、「私は縁が薄いようですが」と質問したところ

「同じような人がいて、その人は、家族と分かり合えずに”さびしく”離婚されました」と回答が来た。「え?」ってなりました。

同じことがテーマだからって、その人とわたしを同一視してしまってる&離婚は寂しいことだと思ってる・・・・

これはちょっと聞き捨てならないなあ、と。

しかも「家族について考えてみてください」という口調で締められていてさらにびっくり。そんなの考え尽してますけど!ですよ(笑)縁が薄いと考えることを避けられませんもの。

 

人の経験舐めとるやろこら!って見えない相手に呟いたのは内緒(笑)

 

もし、私ならどう書くかな。

「ご縁が薄いことで、色々と大変なこともおありだったかと思います。ご自分にとっての家族とはどういうものかをこれからますます知っていかれる流れになるのではないでしょうか」・・・かな。

 

結局「伝え方」なんだと思う。どんな仕事にしても。

私も伝え方間違えて大変なことになったりしたからそう思うんだけどね!

 

経験が足りなくて、言葉が足りなくて、人を傷つけてしまうことがあるかもしれない。

それも受け入れて仕事すればいいことだと思うけど、自分は傷つけてないんだ、厳しいだけなんだって思いたい感じが、業界の中に蔓延しているように思う。

 

色んな客がいるのは、どこでだって同じです。

苦情や文句を受けるのは、客商売だから。能力の差ではなくて人間性の差です。

引き寄せってのはあるかもだけど、少なくとも、客のせいにしている場合じゃないと思うケド。その仕事を選んだ以上仕方ない部分あるじゃん。

 

日本の差別的な価値観にどっぷり染まった人が、そういうとこを無視して自分自身を神聖視しちゃうの、怖いよ。

離婚は寂しくないものだし、遠くに離れた家族のことを必死で思ってる人もたくさんいるよ。経験したことや知ってることだけでしか、人は言えないもんだけど、でも、本を読んだりすれば少しは補えるでしょ。

いやほんとに、占い師ガチャキツイんだよね。

自分の引き運を信じてはいるけど、たまに外すのがしんどいことあるよね。

メッセージだけ受け取りたい時ってあるんだよ・・・神様の言葉欲しい時が。

 

さ。楽しいこと考えよう!お彼岸だし、亡くなった父と一緒にジンジャーエールでも飲むかな!(そうそう、昨晩急にバケタンが青く光ってビビった)

 

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怠けるということについて

寝たり起きたりの自由な日々も終わりに近づいてまいりました。

 

体重も戻りつつあるし(これはこれで怖い)

過ごしやすい気温にもなったので

ぼちぼち活動開始のタイミングかと。

 

そこで、またあちこちアドバイス伺いがてら観てもらってるのですが

引っかかったキーワードがありました。

「怠けやすいので、それを克服したら運気が開けますよ」とのこと。

 

え~~~(>_<)

 

その言葉を見た時は少しショックでね。

でも、凹んでいるだけの昔の私じゃない!(笑)

冷静に理由を考えてみたんです。

 

ググってもみました。

 

結論「まあ、しゃーないわ。これからがんばろ」以上。

 

人の期待だけで生きてきた半生。

魂としては「自分の時間と自分のやりたいことをしたい」わけです。

隙あらば「期待から逃れよう」とする。

でも、元気な時って期待通りに動ける時でもあって。

体調が悪くなることが、期待に沿わなくて済む一番の方法であったわけです。

つまり、怠けてるように見えるってこと。

 

元気でも、他人の期待のない生活をしている人ならば

自分のために怠けずに努力することは、それほど難しくないかもしれません。

だけど、元気であればあるほど、他人からの要求がきつくなる私の場合

逃げるところは「体調の悪化」しかないんです。

 

そりゃしゃーないわな~。

 

この半年、ほぼ自分のためだけに生きることができました。

子どもに戻ったみたいに、好き放題してました。

食べたい時に食べ、寝たい時に寝る、ということも。

さすがに、あちこち痛くなったりして(´;ω;`)自由に動けることはなかったのですが

それでも、心は自由になりました。

でもね、やっぱりどこかにあるんです

「何にも縛られたくない」「自分が始めたことでさえ、窮屈な気持ちになりたくない」

ものすごい抵抗です。

 

ああこれ、過去からの課題なんだなあと思って、ちょっと上から眺められるようになってきたのがここ最近のこと。

 

わたしは、自分自身の力をずっと「鎖をほどくこと」に使ってきました。

いかに逃れるか、だけです。

その先のことを思い描けなかった。

奴隷が繋がれてた鎖から解き放たれた時

今までと同じような生活は二度としたくないと思うんですよ。

だけど、それ以外の暮らし方の中で「いいもの」を選ぶのも難しいんです。なぜならそれは、縛られていた時に似ているからです。

 

規則正しい生活、自分で課題を作ってこなす生活と

誰かに期待され、押し付けられた生活との違いがわからない。

 

だからまず、幼かった頃にできなかった自分、とにかく「縛られない時間を気ままに過ごす」ことから始めるしかなかった。そこから、自分を育てていくしかなかった。

今も育ててる最中ですが。

 

それを「怠け」と捉えるかっていう話になります。

 

自立とは、誰からも言われなくても、ひとりで自分の生活を健康的に送れることかなと思うのですが、ほとんどの人は、家族がいるから何とかやってる状態かと思います。

「だから家族はいいものだ」なんて言われたくないんで(≧◇≦)

そうじゃなくてね。

「自分が心から、自分の中から、自分を大切にする気持ちが芽生える」ということを

私は待ってるわけです。

 

私の中の人は、「さぼり大好き」ですけど

そいつをずっと憎んできたわたしは、その自分を認められなくて叩きのめしてばかりいた。

でも、そんな私こそ、愛してもらいたいなあと願っていた。

 

嫌ったり憎んだりするんじゃなくて、愛してなだめて一緒に歩いていけるように。

 

そんなこんなで、わたしはやっと

私をちょっと応援してくれる人とつながれるようになってきました。

すぐに凹んだりダメな気持ちになる私だから

遠くから、たまに、小さな声で「がんばれ~」とか聞こえてくるとありがたい。

私に責任も持たず、たぶんどっち転んでも何も言わず

だけど、「応援して」と頼んだら応援してくれるぐらいの。

 

すぐにいじけて扉を閉めてしまう私を

避けないで嫌わないで怒らないで、扉の向こうからそっと覗いてくれて

私が出て行ける時には、何もなかったように相手してくれる

そんな人を、ずっと待っていた気がします。

 

怠けてる人ってね、怠けたいわけでもないんだよね。

だからってその人を言葉や何かで変えようとしたって無理で。

何がその人を怠けさせようとしているか、だと思うしきっと何かある。

 

私が部屋を整えるのは、掃除嫌いだからで、掃除を怠けるからですが(笑)

苦手部分をカバーできる能力が身に着くこともある。

だから、一概に悪いわけじゃないと思うけどね。

 

今日はふたつも記事を書いてしまった。

がんばりました。

 

だってゆっくりできるのはこの4連休しかないって!

 

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そのひとことですべてがわかった

連休、みなさま、どうお過ごしでしょうか。

お天気もいいし、掃除かな!

 

遅ればせながら「夜に駆ける」を練習する毎日でした。

YouTubeにあがっているカバー動画もダンス動画もだいたい見ました。

この曲の持っている一般性と新しさと古さに

日々発見があるというか、なんというか。

 

歌詞の物語性も、今の若者たちはすぐに理解するのだと思うし

なにせ誰もがカバーしたくなるようなバックに流れるピアノ音が耳について離れない。

そしてリズムがずっと一定だから、心地いい。誰もが踊れそうな気がする(だけですが!)。

 

変な言い方をすれば、盆踊り的でもあるし(たぶんいけるw)演歌的でもある(悲しい歌詞とこぶし、メロディライン)、まさにザ・ニホンだからこそ、どんな年代の人からも「歌いたい」と思われるのではないかと分析してみました。そこそこ難しいからチャレンジし甲斐がある。

 

盆踊りと行進曲にできるものは流行りますよね。

なんやいうて、踊りたい国民性なんやで(≧◇≦)

ラタタもな。

 

それにしても、歌詞が物語的で素敵。

感情移入できる。泣ける。

それがまた、ダンスにも反映されていて、ひとつの物語を観るような振付になる。

 

この曲で、私の中の音楽オタクの部分が引き出されてまあ大変です。

楽譜買いに行きまして、久々に心斎橋の三木楽器行ったのですが

なにあそこ、宇宙船?って感じでびっくりしたりして。

 

ヤマハ音楽教室に通っていたので

心斎橋の三木楽器さんでグレードの試験を受けてたんですよ。

アレンジとか聴音とか初見とか。

そのお店はなくなったようなのですが、私の中で心斎橋の三木楽器といえばそれしかない思い出。

 

まったく今現在の自分に活かせてない音楽技術だけど

人生は豊かになってると思う。。。かな。

 

幼い頃は、親を喜ばせるために、嫌いじゃなかったから続けてたけど

高校になってやめたいと言っても、特に何の意見もなく

すんなりやめさせた親っていうのもね。

だったら最初から習わせなければいいのにと思う。

半強制的に習わせといて「自主性を重んじてやめてもいいと言う」のは

あまりにも親として無責任だったわよね、と今はわかります。

 

がんばってみたら?という励ましぐらいは欲しかったよねえ。

 

私が心から欲しかったのは、この私の飽き性を理解したうえで

伴走して励ましてくれる言葉や気持ち、だったのかなと。

「信じてくれる」「待っててくれる」ということがなかった子ども時代。

期待だけは与えて、続けるかどうかはあなた次第、私たち親は悪者になりたくないので!っていう姿勢は、どうなんかね。

 

おっと、音楽から逸れてしまいましたが。

 

せっかくだから、何かまた始めてみようかな。

 


YOASOBI「夜に駆ける」 Official Music Video

 

 

 

 

 

体験すること

crd.ndl.go.jp

 

図書館に勤めていた時に重宝していたサイト。

いつ見ても面白いです。

 

最近、気になってるのが、日本語を勝手に解釈してポジティブになろうとしている人たち~。物語も言葉も、時代によっていいように作り替えられてしまうのに、まるで「大昔からそれが定説」みたいなことを言ってる人がいて(影響力あったりする)ホントにもう、また平成令和の伝説を作ってるんだなあって思います。

 

それで、↑↑↑を載せてみました。

蝶々は漢語で「カハヒラコ」が和語って知ってた?

ね、誰も平安時代の発音すら知らない。

それを何をもって「日本古来」と言ってるんだかと。

せめて百人一首には馴染んでほしいわ。

 

さて。

 

全然関係ない話にGO!

 

一人暮らしをしていると、「寂しくないか」または「自由でいいね」の

どちらかを言われます。

誰もが自分の想いを抱えながら、他人の生活をみている。

 

寂しい時もあるし自由でいいと思う時もある。

だけど、一人暮らしをしていない人の想像を遙かに越えていきますよね、当たり前ですが。結婚経験した後の一人暮らしは、娘さんの一人暮らしとは違うんだけど、同じように言う人もいてびっくりします。

結婚に夢見ていても、結婚の現実が違うように。

 

だからわたしは、ひとりひとりの経験を言葉で聞くのが好きです。

自分の思い込みを話すのではなく。

 

妄想を話してる場合じゃない。

自分の現実を言葉にしようよ。

 

離婚を夢見て結婚生活を続けるより

たしかな結婚生活を送るか

離婚に向けて一歩踏み出すか。

どちらかにしてみたらどうかなと思う。

 

できなかった夢を語るより

今できることを語る。

 

そして他人のリアルを尊重する。

 

日本人は妄想で他人に説教するし

他人のリアルを勝手に否定するし。

 

人の生活を見下すことも、羨ましがることも

どちらも同じかと。

自分の理想に近づけるのは自分が一歩一歩歩いていくから。

嬉しいことも悲しいことも寂しさも全部ありだから。

 

ふわっとした善人を生きてたって

リアルは生きられないんじゃないかなって

そんなことを思う。

 

人生に正解を探すのは愚かなことだと思うし

いつだって正解を生きてると思い込むのは傲慢につながる。

やりたくないことをしなければならない時期も

身体を壊してしまうことも

すべて自分の糧になるのだけど

実体験をする側と、それをただ見ているだけの(家族含む)側の

人生の違いについて思う今日この頃です。

 

今日もリアル人生を生きていくのだ。

 

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大好きなワーゲンバンが停まってたお菓子屋さんで。