自分を喜ばせて
連休が終わってしまった。
無職なのに、連休のおこぼれを預かって
とても面白い4日間を過ごした。
わたしは、自分自身がよくわからなくて
世間が言う幸せとか、世間の評価について
勉強してきたけれど、
結局よくわからなかった。
人からは、迷子になってるとか、籠の鳥だとか
言われることがあったけど
私自身振り返ってみると
ただこの世界というものを知りたい、わかりたい、みんな何を考えてるの、何が幸せだと思ってるの、ということについて、ひたすら実験と観察を繰り返してきただけな気がする。
人生の半分をかけて、理解しようと頑張ったけれど
結局わからず(笑)
もう自分を喜ばせて生きていくことに決めた。
ってか、それしか残っていない。
他人のいう常識や、世間で言われてる常識に囚われない生き方というものをやってみようとしたけれど、それで成功したところで、自分自身がちっとも喜べないということを学んだ。
いい高校に受かったところでなに?みたいなことがずっと続いた。
それよりも、自分が納得できて、誰からもあれこれ言われないところで決めたことというのは、もう何が起きても全部〇にしかならないということがわかった。
心から願ったことは必ず叶うんだ。
自分を犠牲にしない「願い」を持つのは、女性には難しいかもしれないが
それでも願わないことには始まらない、と思う。
今年の初めに、とても辛い出来事が起きて
そこから脱出するためにあらゆることを試した。
何が悪かったんだろうと何度も振り返ってみた。
そうじゃなかったんだと気づいた時から変わった。
その学びで得たことは、「こうあらねば」を解放することだった。
人と人は親密でなければならないとか、心と心がどうだとか
愛はこうだとか、そういうもの全部が取り払われた。
わたしは、わたしでしかないのだ。
わたしが感じることがすべてだとわかった。
どんなに歪んでいるだのなんだの言われたところで
それを誰かがまっすぐにしてくれるわけでもなければ
まっすぐが正解でもない。
その人の「まっすぐ」が歪んでいるかもしれない。
心理学や精神を扱う界隈には「人間の心や態度に正解がある」と思っている人がいて、「歪んだ人を治さねば」と意気込んでいるところがある。
私から見て、歪んでいない人なんてどこにも存在しない。
そういう仕事をしているからって、その人が間違わないわけもない。
歪んだ人が、歪んだ人にアドバイスしているのに、誰も何も思わないのがとても不思議だ。
この世にあるのは、「自分こそがまともだ」と「思っている人」が一般化されているだけであって、それも時代によって変わる。
で、誰もがその「自分こそがまともだ」の枠に入りたくて、ある人は大企業に入り、ある人は起業家になって稼ぎ、ある人は心理学や宗教を学んで悟ろうとする。
そこからはみ出した人を「マイノリティ」の身分に、経済的にも落とし込むことによって、「私はまとも」の感覚に皆を駆り立てているんじゃないだろうか。
そういうものから降りてみたらいい。
乗ってもいいけど、降りてもいい。
そしたら自分だけの喜びが見えてくると思う。
それは、誰かに見せるものでもなければ、言いふらすものでもない。
静かに自分の中で熟成していく喜びだからだ。
いつかそれが芽吹くことになるかもしれないが
それもどうでもいいと思うくらいの。
自分を喜ばせることは誰にもできない。
そしてそれは誰にも認めてもらわなくていいんです。
世の中に溢れている方法論をぶっ飛ばすような自分でいよう。