音楽を少し
ぼーっとドラマや映画を観ることしかできなかった日々があり。
ようやくそれに飽きてきたところ
音楽にまたハマり始めました。
なんかこう、、、ぐるぐると趣味が周期的にまわってくる。
そして、どうしても覚えたい歌ができたので
大阪市内の楽器屋さんを訪れましたら
うっかりエレクトーンの体験をやってしまいまして。
なにこれたのしい・・・
ピアノを習っていたので、初見で弾ける。
先生褒めてくれる!←大事!
一人オーケストラだ\(^o^)/
ちょっと見ないうちに、エレクトーンの進化はすごいものですね。
家にあっても使いこなせない気がするから
ちょこっと弾きに行くのでちょうどいい。
うまくなりたい欲もない。必死で練習する気もない。
けど、音楽したい。
その気持ちにばっちりハマってしまったようです。
(ウクレレが眠っているのは内緒w)
ネイルしたばっかなのにな。
自分の中に、ちゃんとそういう楽しみが残っていたことに
それぐらいのパワーが出てきたことに
嬉しくて嬉しくて。
亜鉛と鉄分、ありがとう~~~♬
貧血が見つからなかったら、今でもしんどかったかもしれないのです。
そして、生まれ変わったら、来世ではダンスを踊れる脚で生まれますように。
音楽を目いっぱい楽しめる身体になりたかった。
今でも十分幸せだけど、叶わないこともありますよね。
才能のある人たちに楽しませてもらって
それで全然OKです。
YouTubeでプロの歌声やピアノやダンスを観ることができる今って
めちゃくちゃ贅沢な時代ですよね。
自由な時間もあと少し。
また、頑張る日々がやってきそうです。
居場所を見つける
残暑ありつつも、朝晩が過ごしやすくていい季節です。
そろそろ歩くために出かけたいところ。
鍼で身体を整えてもらい、やっと落ち着いてきました。
鉄分と亜鉛で血を足しつつ(笑)
眠れるようになってきたし、身体の大切さをしみじみと感じる年頃です。
身体の調子に関わらず、エネルギーのままに動き回ってしまう癖が
人生半分過ぎてやっとわかるという・・・_| ̄|○
身体あってのエネルギーだよ。ホントに。
さて。
ぶっちゃけて言いますが
相談に乗るような仕事に就いている人たちの中に
恋愛が奥手な人がいるのってどうかなと私は思っています。
恋愛=性は、人間の悩みの半分以上を占めているのに
そこを避けるようにきれいごとで片づけようとするのは違うだろうと。
不倫とか浮気という単語を聞くだけで拒否反応を起こしたり
「きゃ~」って赤面しちゃうような人が
どうやって夫婦生活の悩みにこたえていくんだよ、ね。
夜の世界で生きてきた人たちの恋愛論が売れるのは
ちゃんとそこと向き合ってきたからだと思うし
それこそが恋愛の一番芯の部分だからです。
どんなに精神世界がどうのこうのと言おうが
性生活がうまくいってなければ、しんどい。
そして、それは、どんなに修行をしようがありがとうを言おうが
解決するのは難しい部分です。
表面上の問題にごまかして何とかしようとするから余計にこじれるし。
「わたしは夫と愛し合ってます」をマウントに使ってる人は多いけど
いやいや、法律に守られた性愛を盾にして自分を守ってるだけなんじゃないの?と意地悪な見方を私はしてますよ。
本心じゃないだろう、お互い。
別に、本心だろうがなんだろうがかまわないのです。
それが自覚できていればいいのです。
「結婚」「子育て」「性」「愛」「恋」
これらはまったく別の居場所を持っている。
世間的にはごっちゃにされてるけど、「人間」という建物の中では
別々の部屋なんです。
そのひとつひとつに対して、自分自身が誠実に向き合っていくことが
「素直」ということ。
そして、自分の持っている傷や闇はどの部分にあるのか、どの部分で癒されるのか
それを理解すれば、するすると解けていくことがあるかもしれません。
私がここんとこ、書こうとして書けないことのひとつに
「心のレイプ」があって
私は、自分の裸を見せるのと同じぐらい酷いと思っている、偽心理学、偽スピ系女性からの「心を見せろ」という暴力はホントにヤバい。教育関係にパワハラが多いのもそれと似たようなところがあります。とかく「他人の心を握ってる快感」に浸ろうとする。
裸を見せるほうがまだマシだわ。←比喩です。
「性」に対する異常な「何か」があるせいで
他人の闇を見ることで興奮するんだろうなと。
性生活を暴露する記事を書いてしまう人も同じ臭いがするんだけど
どちらも歪んでる。
歪みを正当化したいために、スピリチュアルな知識にかじりついてる雰囲気が漂う。
自分だけはキレイだと思いたいのかもしれないし
結婚というものを美しいものだと思いたいのかもしれないし
よくわかんないんだけど、結局(笑)
だってわたし、子どもを産んだ人が、性に対して「きゃ~~~(赤面)」って言う人が一番信じられなくてね。あれなんなの?www
堂々と「してます宣言」が「子ども」という存在なのに。
結婚って全然きれいでも何でもないし、堂々と欲望を満たしあっていて、それを世間が認めてるだけのことだと思ってて。(特に日本はそうでしょう。それ以外の性行為を汚いものとしてるんだから。そういう意識づけされてるだけなのにね)
それは愛でも恋でもなくなっていくのは当然なんだけど、それを認めない人たちがたくさんいることに驚いているのです。
夫への依存を愛だと思ってる人はけっこういると思う。。。
欲ってねえ限りないよね。
性が満たされたら次はこれっていう風になっていく。
そしていつしか、性が満たされなくなっても、違う欲(お金とか子どもとか)で一応満たされることとして続いていく。
子どものままごとじゃないんだから、この世界は。自分自身の身体は。
そのことを受け入れられるかどうかで、自分の器の広がりが決まる気がします。
自分の欲を、醜いからと放置したり、きれいな言葉に置き換えて他人に見せたり
そういうことをし続けた先に、心のレイプが発生する。
自分の身体を満たしてあげられないから、相手の心を暴力的に奪って満たそうとしてしまうんじゃないだろうか。(毒親の誕生)
自分の中の声に本当に耳を澄ましてる?
自分の欲を知ってる人は、穏やかで謙虚で紳士です。
心の中の怪物が大きければ大きいほど、制御するだけの精神力がいる。
浮気や不倫を精神論や宗教論で説教すれば治ると思ってる人を見かけますけど
そうじゃないから!
自分の中の暴れるエネルギーをどう処理するかを見極めるのは頭脳であり知恵なんです。頭を使え。
わたし的には
心は神様に預ければいいし
身体は安心できる紳士に預ければいい。
着地点を知っていれば大丈夫。
一応整った!ヽ(^o^)丿
権力というもの
チョコパンを食べたらパジャマにチョコが付いた。
シュールな朝です。
ここんとこ、私が関心を持っていた「べてるの家」「東京シューレ」に問題発生で
改めて権力の怖さについて考えてみました。
「東京シューレ」については、さほど不思議ではありませんでした。
息子たちが不登校になった時、こちらの団体の資料を取り寄せて検討したことが
何度もあります。
評判はいいし、言ってることは真っ当でした。
だけど、私の中の人(直観)はどうしても関わらせてくれませんでした。
その理由の一つは、代表が元小学校教師であったことです。
これは私だけの思い込みと言われても仕方がないのですが
権力を持った女性教師の暴力性に対して、私はとても敏感なのです。
学校というところは男社会です。間違いなく。
校長と教頭は男のほうが多い上に、男仕草をする女性しか管理職になっていないところがほとんどです。
学校、特に小学校は、担任制であり、他者の批判を受けにくいんですね。
本来であれば、内観していくことで教師としての資質を上げること、そういう姿勢で生きる人が、そのような働き方に向いていると思うのですが
とにかく、客観的に自分自身を見てくれる人と出会わないので、どこまでも自分本位になれるのです。
だから「クラスで不登校やいじめを出さない」(実際にあっても隠ぺいする)ことに必死になるわけです。そういう表面的なことでしか、自分を評価してもらえないということの裏返しだと思います。
そのような職業に就いていた人が、団体の長になるとどうなるか。
自ずとわかりそうなものですが、ワンマンになるのが目に見えているんですよね。
主義主張が世間的に正しいから受け入れられるけど
人間性と主義主張はリンクしないところもあります。
親が教師である家の子ども達の声を聴けばわかるかもしれません。
学校ではいい先生でも、家庭では・・・ということは良くある話。
校長にでもなった暁には、自分の学校を家庭の延長線上に置いてしまう。
パワハラセクハラも、自覚なしに行われるということです。
学校では許される(なぜ?)ことでも、一般企業で許されないコトってあるじゃないですか?その境界線がわからなくなるのが、元教師だったりするわけですね。
息子たちが一時期お世話になったフリースクールの発起人もそうでした。
「私の学校」を作りたいんだなあというのが一目瞭然で、誰かの意見など全く必要としていませんでした。いいも悪いも自分の気持ち次第。
それでも、不登校で悩んでいる親御さんには感謝されるだけ。
シュタイナーシューレのような確固とした思想などありませんから
「弱者を救う自分」に酔ってきたりして。福祉にしてもそうですけど
「救ってあげてる自分は間違っていない」に辿り着く傾向があるような気がするのです。
だから、東京シューレはどこか上から目線で、いつの間にか不登校界隈ではブランド的な扱いになっていて、家から出られない、経済的にもしんどい不登校家庭には寄り添っていない気がしたのです。
権力を持った女性の、パワハラをわたしは小学生の時に体感しています。
女性教師が毎日毎日体罰をするのを見てきました。
中学校でもありました。
男性の暴力教師は普通にいるけど、だからって女性までそれを真似しなくても、とは思いましたが、あの頃はそれが普通でした。
「力で子どもたちを制圧する」のが当たり前の学校で教師をしていた人が
パワハラやセクハラに鈍感なのは当然です。
権力を持つことの快感に慣れているのが先生という仕事。
そこに疑問を持った人は、教師を辞めていく。
でも、自分が立ち上げた場所でもまた、同じことをやってしまうのかもしれません。
よく「人に頼ることは大切だ」と言われますが
教師が教室で子どもに頼りすぎる現実は異常です。
お気に入りの子どもを使って雑用をさせる先生がほとんどです。
自分の感情のままに叱る。お気に入りを作る。えこひいきを日常化する。
団体の長の姿勢は、一番下まで届きます。
直接指導していなくても、空気が感染するようにそうなっていくのです。
福祉に関わっている人だから、不登校を助けてくれる人だから、と信用するのはちょっと待ってと。
その人が持っている常識は、パワハラセクハラを「受け流す」ことかもしれない。
それって社会的にやってることとはリンクしないんですよ。
教育への情熱とパワハラを併せ持ってる人は意外と多い。
そこは、「人として」の世界ですから。
宗教関係者のセクハラも当たり前に存在するのです。
だから「怪しい」と思った時点で逃げる。避ける。
「人を信用しない自分」を罰しないことです。
好き放題できる地位に就いた時、その人の「考え方」の奥にあるものが出てくるのかもしれません。それは家庭で「親」になるのも同じ。
子どもに対して絶対権力を手にした人がやってしまうことがあります。
どうしようもないことかもしれない。けど、やってしまった自分を他者が諫めてくれることや、その人の相談に乗ってくれる人がいれば暴走は防げるはずなのです。
昔は戸塚ヨットスクールの事件がありました。
学校に行けなくなった子どもたちが、そのような大人の餌食になるのを止めるのは難しいのでしょうか。
不登校界隈に湧いてくる「助けてあげたい欲」にかられた大人たち、その大人に群がってしまう母親たち。
連鎖が止まりますように。
男も強くなりや
遊びすぎてダウンしてしまう。
あほやなあと思いながらも
こんなことをしてこなかった青春を思う。
アラフィフになると、男から「女は強いなあ」という言葉をいただく。
離婚経験者が増えるこの年齢に、男は弱さを自覚するらしい。
私が離婚した当時は「離婚した女はかわいそう」と言われたものだが
それも、これも、同じ男の意識から出てくる言葉だと思った。
女に依存していれば楽勝な人生が待っている。
仕事だけしていればいいし、嫌なことがあれば反抗して見せてうっぷんを晴らせばいい。
気持ちも現実も、女に嫌な部分を全部やってもらえる人生ほど楽なことはない。
だから、弱くなるのだ。
離婚しただけで慌てる。
これまで依存してきた女がいなくなって、気持ちを立て直せない。
離婚しても、嫁と子どもの心配をする男性はけっこういる。
世話を続けている男性を私は何人も知っている。
女性がさっさと元夫との関係を断ち切るのとは対照的だ。
気持ちもだらだらと引きずってるし
まったく心機一転しないやつら(笑)
それはそれでかわいいと思うことも可能だけれど
そこまでして、女性に心を依存してしまうものかと愕然とする。
女が強いのは、決してもとからではない。
私も、そりゃできれば、男に守ってもらいたいと思うほどの体力のなさである。
気は弱いし、威勢のいいおばちゃん連中には混じれる気もしない。
だからこそ、自分の心を見つめ直したり、どうすれば依存せずに生きていけるかを研究したり、身体を労わる方法を探したりして生きてきた。
弱いからこそ、強くなるより生きていけるような工夫をしてきた。
社会が女を守ってくれないから。
「男は弱いから」という言い訳をしている間に、できることはたくさんある。
いざとなったら女に頼ればいいと思ってるから、いつまでも弱いのだろう。
強くなればいいのに。
強くなりたいと願って頑張ればいいのに。
身体が健康な人は、健康が損なわれた時、どうしていいかわからないのだろうし
心が強いと思っていた人は、一度折れると回復するのが大変なのかもしれない。
私が、自然療法やカウンセリングに興味を持っているのは
医者に行けない体調になっても生きていけるように、だし
容姿や媚びることで男をゲットできない自覚があるから
自分で生きていけるような心の在り方を模索してきたのだ。
お金も他人もいつでも手に入ると思っている人たちとは、恐怖の在り方が違う。
生きていくことそのものが怖かった私は
どうすれば身を守れるのか、どうすればひとりで生きていけるのかを常に考えていた気がする。
自分自身を振り返ることなく、常に外部の責任にして生きてる男たちは
一生わからないことがあるのだろうと思う。
どうして離婚されたんだろう、どうして子どもに会わせてもらえないんだろうって。
心の中で、恨みながら生きていくのって大変だろうな。
一方で、「もう結婚はこりごり、自由な今が好き」と言う男たちも存在する。
何が正解かなんてわからないけれど
女は強い、男は弱い、という勝手な思い込みに自分を縛り付けるのは得策ではないと思うよ。
今の私は、一人の男性に、お金も心も世話も身体も性も全部を委ねることなんて
不可能だと思っている。
すべてに合致する男はいないし、だからってどこかに妥協してまで一緒になる必要はない気がする。
どこかに不満を持ってしまい、それだけで相手を見てしまうようになるぐらいなら
本当の自分の満足がどこにあるかを知ったほうがいい。
自分が満足する到達点を知れば、おのずとどうすればいいかわかるだろう。
「なんとなく不満」というのは心を蝕んでいくよ。
さて。いつになったら男は、女に依存しないで生きていくことを選べるようになるのだろう。
誰でもいいということ
やっと過ごしやすくなりました。
これ以上、寒くならないで!
仕事について。
女性なら、生理もあるし、出産で休まなきゃいけないこともある。
私は常に「いつでも誰でも代わりができるように仕事内容を整理する」ことを主眼に置いていて、自分の仕事については必ずマニュアルを残すとか、仕事を簡単にするとかしてきました。
仕事の内容も大事だけど、「この人にしかできない」のは違うだろうと。
人次第で変わるようなものなら、独立してやればいいことだし
少なくとも公務員や企業などの、チームで仕事をする場合は
後任に誰が来てもできること、休んでも誰かが代われることが大事だと思っています。
だけど、そういうやり方をものすご~く嫌う女性がいましてね。
どの職場にも必ずいる。
「私じゃなきゃだめってことにして!」みたいなね。
だから、私のやり方に反発するわ、止めてくるわ、上を通して文句言うわ・・・
「誰にでもできるようにする」=私はいなくてもいいのね!という解釈をしてしまわれる。
自分の城を作らないと不安でたまらない。
自分の家庭のように「私がすべてをコントロールする」場でないと生きていけない。
それって病んでるなあと思うんですけど
その病んでる人を会社の上の人たちは擁護するですよね、不思議。
人が何か、誰かに依存するということは、そういうことです。
「あなたじゃないとダメだ」と言われたい、依存されたい。
だけど、「誰にでもできるような仕組みを作った上で」頼りにされるということは普通にあるわけです。
その仕組みさえ作らせないで「マイルール」に固執するということは
人としての自分に自信がないのでしょう。
学校が変わらないのもそのせいで
「私のクラスですから」と口を挟ませない。
担任がすべての責任を背負うことが前提で、しかも、そうしたいと思ってる教師が多い。
そのくせ、仕事が多いのなんだのって、当たり前ですよ、自分にしかできない仕事を量産しているのは自分だから。
「誰がやっても」というと語弊があるかもしれなくて
「だったら教師じゃなくていいのか」になるのは極論すぎるとは思いますが
少なくとも「ベースが教師であること」は譲れないわけで
仕事というものは、「その仕事のプロであること」と「職場を発展させること」のふたつを両立させていくものだと、私は思っています。
家庭でもそれは同じで、「母親にしか運営できないような家(どこになにがあるかわからないような家)」は良くなくて、すべての家族構成員が「どこになにがあるか」が一目でわかることが大事じゃないですか。
私の場合、子ども部屋は掃除したくなかったので(笑)すべてを子どもに任せましたし。
元夫は家事をするのが当たり前でしたから、私がいつ急にいなくなっても大丈夫!という安心感がありました。
あ、そうか。自分で仕切りたい人って、「私は不在にならないからね」という存在感が必要なんだね。
「その場にいるかいないか」が重要なのね。
そうまでして存在感が必要なのか。
自分のいない世界が快適にまわることが許せない。。。
これって「憎んでいる人を許しなさい」とか言ってる人もやってるんだけどな(笑)
家庭に思いっきりしがみついて、家族に自分の存在を認めさせたい、そういう世界でないと許せないわ、と思ってるからこそ、「私がどれだけ素晴らしい存在か」を周りに言わなければいけないのかもしれない。
誰にでもできるように仕組みを整えておけば
家庭でも休めるし
仕事も休んで罪悪感を感じることもない。
それってよくない?
自尊心が高くないと難しい???
「私ががんばらないと!」っていうのが私はホントにダメなんで。
ひとりだけに頑張らせる世界を撲滅したいwww
そうすると「私がいなきゃ困る世界が必要」な人は困るのかもしれないけど
けど、それって別に「仕事で番長になる」「母親として絶対視してもらう」じゃなくてもいいやん。生きてるだけで必要な自分だとわかれば。
そして、色んな人とチームで仕事をして、同じ仕事を違う考え方で一緒にやることも覚えて、そうすれば、おのずと仕事も家庭も良くなると思うんだよね。
誰にでもわかるように。
誰でもできるように。
その教育や訓練の仕方もマニュアルである程度できるように。
そしてそれが、間違っていないように常にみんなでチェックできること。
結局それが、国や政治の仕組みだと私は思っていて
「誰かがやってくれる難しいこと」に丸投げするのは
「みんなひとつ」の思想に反するって思ってます。
みんなで「地球人」としての仕事をするのに
「私にしかできないのでまかせてください」の人を作るのは違うでしょう。
私にできることは誰にでもできることだよって示さないと。
だから、職場や家庭で「わたしがいなければ」とやってる人がいる限り
この世界はまだまだだと思っています。
スピでもそうなんだよ。
ごく少数の有名な人たちが本を出したりするのは「誰にでもできるように」「誰にでもわかるように」解説したいという願い。
有名になりたいからではないんだよね。広めたい、自分がいついなくなっても伝えられるように、という気持ち。
「自分」じゃなくて「その知識や技術」が大事。
それを勘違いしてる人たちが日本にはいっぱいいて
「自分が一番」でしかない。
そうまでしないと、自分を認められない。
謙虚であるということは、「自分」より「知識や技術」を広めようとする気持ちだと思う。
相手を立てるとかそういうことではないと思う。
自分の存在は、「なにか」を広めるため、人類のために必要で
「自分の名前」を残すために生きるんじゃないってことを知ってる人が
謙虚な人です。
わたしは、そういう人を何人も知ってるから、すごく幸せだし
私はもう、自分の原家族にとって、「そこにはいないけど伝えることは伝えた」人間なので、これからもそういう役割をしていくつもり。
ほとんどの職場でマニュアルを作ってきた私としては(笑)
生きていくためのマニュアルを作っていくのかもしれないと思うのでした。
もしも願いが叶うなら
「あなたは棚ぼたじゃなくて自分で叶えちゃう人だから」と言われてるみかみです。
棚ぼたも待ってます!!!
「鬼滅の刃」を遅ればせながら見ました。
面白いです。(Huluが第一シーズンで終わってしまった・・・)
みなさん、キャラクターに気持ちを寄せているようですが
私はやっぱりこのテーマに感じることがありました。
鬼になってるのは、虐待された子ども達。
少年コミックにありがちだけど、親や大人がいないところで
子ども達だけで冒険したり戦ったりするのは同じ。
そこに、鬼の悲しみが隠れている。
少しはみ出し気味な子ども達が助け合ってる感じもあって
現実には存在しない、でも、夢みたいな仲間。
色んな人が色んな部分に共感できるのだろうなあ。
さて。
今日も今日とて自分の願いを叶えてきました。
やっぱり自力で叶えるの、好きだな。
いいものを探し当てる勘が戻ってきた気がする。
そして、自分で動くから引き当てるのかもと思う。
執念があれば大丈夫。
諦めたらあかんよね。
そして、気が付けばけっこういいじゃん、自分!ってことになる。
日々起きてる時間のほうが短いのに
起きている時の充実感はある。
それでいいのかもしれない。
ご飯だけはちゃんと食べよう。
鉄分と亜鉛のお薬は飲もう。
野菜ジュース飲もう。
あとはおまけだ。