風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

ばけたんを手に入れた

意外と小さかったばけたん。

とりあえず、我が家は大丈夫(笑)

息子に「面白いもの買ったで」と報告すると

「へ~」と乾いた返事をいただきました!

 

*****

 

毎日、池のほとりをバイクで通過する。

なぜなら、夕陽が開けて見えるから。

空が広い。

そして、最後は山に向かって走る。

 

大阪市内で働いていると、人とビルに埋もれてしまう。

職場の近くには、緑もたくさんあるはずなのに

帰り道の夕陽を見るために、少し遠回りする。

 

とんでもない事件が立て続けに起きて

これ、20年前ならもっと大騒ぎのはずだが

Twitterで見ている限り、冷静な意見も増えており

しかし、あまりにもこういうニュースに慣れすぎかと思う。

 

私の子ども達は、あまり学校に行っていない。

不登校、という名前にするのはあまり好きではなかった。

「ひきこもり」というネーミングも好きではない。

どうして人は、人を、カテゴライズしたがるのだろう。

誰もが自分の名前だけで生きていければいいのに。

 

先日、既婚男性と話をする機会があったのだが

話の中身がほぼ「○○は何々」という決めつけによる会話であった。

あまりにもくだらないなあと思いつつ

仕方がないので相槌を打っていた。

独身女性がかわいそうの決めつけに始まり

自分の息子がオタクであることを嘆き

金持ちばかりと恋愛する女性をディスっていた。

女性管理職というものを見たことがないようだった。図書館なんて半分以上女性館長だが。

 

そうやって、世界を限定し、世界の中身を自分で勝手に創り上げ

それ以外の人間を「異質なもの」として、からかっていいものとし、自分がまともだと思う人間とだけ付き合う。

それを何十年も続けているわけだ。

 

それが、ある種の田舎の男なのだろう。

何不自由なく育ち、男というだけで家を継ぐ。

誰にも追い出される心配がなく、結婚しているというだけで安心し

安心感の中で女性を探している。つまんない男だ。

 

日本が落ちていくのがここに証明されているのではないかと

私は思うよ。

 

こんなに様々な価値観が示されている世界にいるのに

井の中の蛙の脳のまま生きていられる。

困ったこともないから、自分を顧みることもない。

おぼっちゃまの日本。

 

それが今の事件の奥深くに潜んでいる気がしてならない。

 

ひきこもりの息子であろうが、介護している親であろうが

困ったからと殺してしまうのはいつも男だ。

子どもを殺す父親、自分の親を殺す息子。

 

そして、世間から同情を得るのも男だ。

 

ばけたんで探すのは、視えないモノだけど

怖いのは現実の、決して幻想の外に出ない男たちの見ている世界である。

 

だから、私は自分の好みの男性だけを探すことにした。

女性は皆、そうすればいい。

ターゲットは絞ったほうがいい。

女性がどんどんふるい落とせばいい。

「男に好かれるノウハウ」など放り出して、もっときれいにパワフルに生きよう。

 

いつか、命を粗末にするような男たちが、表舞台から消えることを祈っている。

 

ひっそりと生きてお互いに殺しあえばいいのに。

無力な女子供をターゲットにするのはやめてもらいたい。

切実に祈ってる。

 

そして、誰もカテゴライズされない存在であることを共有していきたい。

「わたしはわたしそのものである」

誰からも規定される必要などない。

相手を「おんな」と馬鹿にするから、馬鹿にされる「おとこ」であり続けるのだし

「オタクはダメ」と言うから、自分自身をいつまでも「オタクでないことを証明し続けるために」生きていくのだろう。

 

世間が描く「異端な人間ではない」ことを必死で証明するために、多くの人は生きている。結婚してるから、学校に通っているから、仕事してるから、会社員だから、社長だから、コンサルだから、占い師だから・・・そうやって、自分を「はみ出し者ではありません、だから、受け入れてください」と懇願しながら生きているのであろう。

みんな、ばけたんで探される霊になってしまえ。

 

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何となくTwitterを見ていたら
鍼灸師さんの投稿を見つけた。
鍼にいかなきゃ!と思っていた私は
直感を信じて
すぐに予約をとり、行ってきた。

整体師さんにも重症と称される肩凝り。

鍼とお灸をしてもらった。
かなりの効き目(鈍痛凄い)。
身体がどんどん緩んでいく。

お灸をしてもらっている時
ふいに「もう闘わなくていいよ」という声が体の内側から聞こえた。
え?と思うまもなく涙が。

もう、いいんだね、頑張らなくてもー

中の自分がほっとするのがわかった。
そして、戦闘モードじゃなくたって、今の自分はビクともしない、大丈夫なこともハッキリわかった。

号泣しそうになるのを堪えて、施術は終わった。

さすがの身体に、鍼灸師さんも、「通った方がいいと思います」とのこと。
「体のことなら任せてください」と、力強く言ってくれた。

この人に頼ってみようと思った。

帰り道の空は青く、澄んでいた。
京セラドームが光っていた。

ふと見ると、虹が。

これからは、自分のために生きよう。
安心させてあげよう。
ゆっくりと大切に自分をいたわっていこう。

それからでも何とかなるよ。

虹が応援してくれてる気がした。

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子供たちの不登校の時も、離婚の時も
好き勝手に言われた。
心無い言葉で傷つきそうになるから
ずっとずっと身構えて生きてきた。
可哀想な人、同情される人になりたくなくて
必死だった。
そのおかげでここまでやってきた。

今は何を言われても平気だから、体を緩ませても危険はない。
くだらないアドバイスをする人たちを蹴散らし、ぶっ壊して歩いてきたのだ。
信じられる自分になった、
元々そういう私だった。
やっと安心して眠れそうだ。

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自分≠趣味

こんばんは。。

 

思いつくまま綴ります。

 

育児が終わって何をしようかと迷っている人

会社勤めを終えて何をできるかと考えている人

どちらも同じなのですが

 

私のようなオタク人間は、母親やってても会社に勤めてても

好きなことは好きなこととして、消えずに存在していますし

別に探さなくても、楽しいことをしながら生きていることが

すなわち、生きることで

「何もないってどういうこと?」と思うわけです。

 

不倫に走る男性も同じです。

空っぽの心を女性に埋めてもらおうとしてる。

趣味のひとつなんです恋愛が。家庭をどうする気もない。

 

本気で好きになることができる人はまだ幸せ。

でも、単なる趣味だと軽い気持ちでやると、痛い目に遭う。

お金取られたりね。そしてそれを女性の責任にしちゃう。

お前が真剣じゃないからやろが!って思うけど、「女性に騙された」って言うんだよね。

 

それと同じで、趣味を探しても探しても、そこに自分自身はありません。

お金を取られるだけになりかねない(例えがえぐいか・・・)。

 

だって趣味って何よ?

本を読みたきゃ読めばいいし、趣味にしなくたって読めるわよ。

歌いたかったらカラオケ行ってればいいのよ、趣味にしなくても歌えるよ。

山に行きたければ電車に乗って行けばいいやんか。

他人が提供してくれるあれこれを消費することが、「自分のやりたいこと」でしょうか。

 

時々「趣味は何ですか」と聞かれ、同じ趣味なら話が合いますね、とか言われるけど

合うわけないやんね。

趣味というくくりで自分を表現するのは違うと思ってるし。

 

わたしには、たまに読んでいる本を語り、作ったご飯を写メしあう人がいるけれど

ホントに偶然出会って、そういう部分を見せれる相手ってなかなかないな~ということで、何となくつながってる。そういうもんです。

 

合唱団に入ったって、歌うことより友達づくりに熱心なおばさま方がいるんで

ちっとも歌った気にならないし(まだカラオケのほうがマシ)

読書会で延々と自説を述べる年配男性がいれば、そこは読書なんて関係ない会になるし。

ドライブったって自分の運転に酔いしれてる男性の横で吐くわけにいかないでしょ(笑)

 

やりたいことは自分の中にある。

それを掘り出してやるのが人生かもしれない。

誰かにすがって頼んで連れてってもらう世界ではないんじゃないかな。

 

という価値観の男性かも~ん!!!!

 

っていうことを書きたいんじゃなかった(笑)

 

そうやって、自分自身を「趣味でくくれる人」になろうとする人って

子どもに対しても「何者かになっててほしい」と思うんじゃないかなと思うのね。

人間は、「行っている何か」とか「肩書の何か」でできているのではないの。

子どものことを話すとすぐに「どんな仕事に就くか」とか「何を趣味にしてくれるか」しか言わない人がいる。

ええええ!!!!と思う。

別に、「こういう肩書の子どもができました!」みたいな完成形を求めなくても、生きてるだけでその子はその人生を思い切り表現しているよ。

 

人としての成長を見て欲しい。

どういう「ものになるか」じゃなくて。

 

自分のことも他人のことも、そういう視線でしか見てないってことだろうし、そういう世界もあるのかもしれないけれど。

極端な話、生活保護を受けようが、社長になろうが、その人はその人であり続けるんだよ。人格や性格が変わったりしないと思う。

 

外付けの条件で人間を観ていると、自分も苦しいだろうと思う。

何者かにならなきゃとか、逆に「どうせわたしなんてこれでいい」とか。

恋人がいるから俺はまだまだイケてるとか(爆笑)。

んなわけないやん。空っぽな人は、恋人がいても空っぽでしょ。

 

「わたしはわたしである」という確信だけが自分を安心させる。

そこに至るのに、道はいくつもあるけれど、それは挑戦でしか得られないのかもしれないデス。私もまだまだ道半ば。

 

だから、趣味や習い事で自分を埋めてもいいけど、毎日毎日の生きている時間の中で、自分自身を見つめなおす時間を持つといいんじゃないかな。

 

*お中元の季節だ~選ぶの大変だ~がんばろ!

 

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育児というどうしようもないもの

あまりに立て続けに記事を出すのもどうかと思いつつ

ここまで書きたくなるのも久しぶりなので

勢いにまかせて書いてみようと思います。

 

私は沸点が低くてよく怒っているのですが

その一つに・子どもへの虐待についての考え方が甘い人に怒る・

というのがあります

 

私は長い間、母との葛藤について自分なりに調べ

家族療法をやっている精神科医に会いに行ったり

ワークをしたりして過ごした時期がありました。

カウンセリングも長い間受けていました。

 

母のこういう部分もある種の虐待ととらえていいんだなと認めると

今度は自分の育児への客観性が高まります。

 

私にとって「この人は信用できる」という判断基準のひとつが

その「自分の育児に対する客観性」なんです。

つまり「虐待だと子どもに思われるかもしれないなあ」という自覚です。

昨今「子どもは叩かれるために生まれてきた」などという珍説を唱える人が増えました。そう思うのは勝手ですが、わたしは、嫌いです。

だって「加害した自分は被害者」だと思ってるんですから。

 

「子どもが私を選んでくれて、叩かれてくれてありがとう」ってなんだよ?

完全に親という立場を忘れてるじゃん?

と思うわけです。

 

別に叩いてなくても、育児というものは、少なくとも「親の強制力」が働きます。

その強制力を「しょうがないじゃん」「わたしだって辛いんだから」と捉えるか、

「もしかして子どもにとって間違ってる?」と一度立ち止まって自分の行いを振り返り、その間違いごと引き受ける強さを得たかどうかというのは

私の中で区別をするので

どうしても前者に厳しい目を注いでしまいます。

 

子どもを虐待してしまってから自分を見つめ直した人を何人か知っていますが

私の中で、「子どもを叩いたことはしょうがない、わたしだってかわいそうなんだから」の思考の人とは付き合えず、「今は良好な関係だけど、娘にひどいことをした事実は消えない」と思って日々生きている人のことは尊敬している。

 

その違い、わかってもらえるかしら?

教科書に載るような文豪で、妻に対して今なら虐待案件と思われるようなことをしていた人も、私は苦手です。どんなに才能があろうが、誰かを犠牲にし、犠牲にしたことを美化する人を尊敬することは難しいです。

 

私の両親も、私に対して「いいことをしてやった」としかたぶん思っていないし、豚と呼び続けて自尊心を奪ったことも忘れていることでしょう。(決めつけMax(笑)

それはそれで、別にいいですし、弱い人だと思いますし、親としていてくれてありがたいですが、それ以上に涙を流して感謝するということはないです。

 

5月の不登校カフェで話したことですが

「何年たっても”今の私だったらもうちょっと子どもに何とかしてあげたのに”と思い返してしまうもの」です。

自分の育児が正解で、間違いなくて、別に振り返る必要ないわ、と思ってる親御さんたちとはそういう話ができない。

子ども達に対して後悔するということは、決して自分を責めすぎることでもなく、自分を大切にしないことでもなく、それこそ自分を大切にできているから湧いてくる感情だと思うんです。

自分に自信があるから、そこまで振り返っても自分を否定しないでいられるし、抱えていられる。

 

だからその「子どもは叩かれるために~」なんていう思想でストップしている人に対する共感が全くできません。

子どもがその親を乗り越えていくんだろうと思うので、別にどうでもいいのですが、とりま、今の私では仲良くできないというわけです。

 

親から受けた「ひどいこと」を「ひどかった」と認識できる力。

子育てで「間違えた」と思える力。

それを抱えたまま生きていける力。

これが強さだと私は思います。

 

「親はああいう人だし仕方なかったよね、私は痛くなかったし、痛かったとしても自分が悪かったんだし」と親をかばい、「子育ても親と同じようにしたから間違ってないのよ」と開き直るのは、私には、いじめ加害者をかばっていじめられっ子を否定する言動と似てるように見えて仕方ない、というのが私の認知です。

加害を認めるのは怖いです、誰だって。だけど、育児というものは、少なくともある種の暴力性を含んでいる。教師も同じです。それを認識して生きているかどうか、私はそこをいつも見てしまうのです。

 

親だから、というだけで正しいわけじゃない

教師だから、どんな場合でも間違ってないと思ってもらえるわけじゃない。

その「立場」を利用してしまう己の心の弱さを知っているか否か、が分かれ目のような気がします。

 

私のこの独断で人を判断する癖について

人はとても嫌がりますし、自分でも嫌味な奴だと思うのですが

私は、大人をかばってしまう人より、子どもの痛みをまず考える人が好き。

というだけです。

 

「子どもは叩かれるために~」も自分でいきなり実感したんじゃなくて、誰かの言葉を聞いて慰められて納得したんだと思う。

子どもに聞いたわけでもなく、証明もせず、ただ誰かの言葉を鵜呑みしなければならないほど、自分で考えずに生きていきたいんだとわたしは思ってしまう。

それって不登校発達障害を机上で学ぶ人にも言える・・・かな、何となく似てる。

 

体験や経験と知識がばちっと結びついた時にはじめて、「こうじゃないかな」と言えるんであって、それも「こうだよ」とは言えなくて、「わたしはこうだったけど」としか言えないものです。

 

知識を得れば得るほどわからないことは増えるし、経験すればするほど、パターンはひとつじゃないことがわかる。

けれど、ある人は、知識を一つ学んだら、それが正解だと思って、他人に上から目線で語ろうとするし、自分の経験が100%正しいと思ってしまう。

試行錯誤や曖昧さに耐えられない人が、妄信したことを広めると怖いんだよね。

だから、そうじゃないよってSNSで発信するんだけど、わかる人にしかわからない。

まあ、そんなもん。

 

届く人にだけ届けばいい。

 

教育や育児って、過信するとどこまでも子どもを見ずに突っ走れるのです。

危険な組体操をやめないこともそうだし。大人が、子どもを使って自分自身を満たすことだけに必死で、それを教育や育児の「誰が言い出したかわからない理屈」だけで覆い隠し、最後は自分が犠牲者であるかのようにふるまう。その歴史が、いじめであり、不登校につながってるんじゃないかなあと私の経験は言っております。

 

 

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過去の記憶が書き換わる

また母のことを思い出す時期が来たようです。

 

どっぷり共依存で育ってきたと思っていた私ですが

思い返すと、意外とそうでもなかったなあという感じ。

過去の書き換え進んだのかしら。

 

不登校カフェを止めた流れから、色々と思い出すことが増えました。

 

わたし、意外と、っていうか、まったく冷たいやつなんですよ。

知ってたよね(笑)

だから、共依存に陥れなくて苦しかったんじゃないかな。

 

今となればよくわかるんだけど、母は恋愛もせずに結婚して

 

母の溜まっていく澱のような気持ちを、私が吸い取るしかなかったのだろうと推測してる。

 

私は、常に家族を俯瞰して見ていて

母親の代わりに、どこが足りなくて、何をしたらいいのか、よく見ていた。

その部分だけ、母親は私を頼りにしてたと思う。

 

だけど、いつからか、あまりにも母親が私にマウントしようとするので、めんどくさくなってきた。妹との関係もキツくて、家にいない時間や友達としゃべる時間が一番だった。

何かにつけて、私と張り合ってくる母。

常に父親の意向を気にしているくせに、やたら父親に反発して喧嘩してるし

 

その時だけ、私に味方するように仕向けて、後で聞いたら「あの子はどうしょうもないね」って父に言うだけのチキンな喧嘩。犬も食わない夫婦げんかに巻き込む親ってどうよ。

 

私の友達にケチつけるのはいつものことで、わたしはどうしても母に友達を紹介しないもんだから拗ねちゃって。

妹は母のお気に入りになりたいからか、友達を母に会わせて仲良しごっこやってた。

私が元夫とデート始めた時も不機嫌になってしまい、なんて子どもなんだろうと思った。

 

わたしはそれぐらい母に冷たくした。母の介入とマウントが鬱陶しかった。

母が嫌いでしょうがなかった。嫌いなのに、箱入り娘で自立できなくて、自分の心が分裂し始めたのが、軽い摂食障害だったのかもしれない。

 

母と離れたい、けれど自立できてない。その葛藤がずっと続いた。

どうしたって親を頼らなければならない局面があるでしょ。出産とかも。

で、頼ってあげたほうがいいのかなとかね。←ほんとに自立してなかった私。

 

もし、本当の共依存だったら、結婚してただろうか。母のお気に入りと結婚しないとダメなムードはあったけど。

 

自分が意地悪くて、母にとって冷たい娘であることへの罪悪感があった。

それが、母と心理的に切れない理由だった。

だけど、あそこで私が許したら、これからの人生ずっと私をダシにして勝ち誇った顔をされるかと思うとね。生きてる心地がしなかった。

 

 

 

 

母は、私を弱い立場に置いておくことで、心の安定をはかったし

私もそれに習おうとした。いつしか「弱いふり」が「弱い私」になっていった。

長年のその癖が人生をややこしくしたよね。

「あなたは弱い人でしょ」と決めつける人がいっぱい現れた。母の代わりみたいに。

 

離婚していくつもの修羅場をくぐった私は

ようやく「弱い人」を演じるのをやめた。

・・・そもそもが強いからか、演じるの下手すぎで、護ってもらえねえ。

「守られたいなら言うこと聞きやがれ」って言うやつしか現れないしな。・・・

それでも「弱いわたし」をまず最初に出した。だけど、それやると自分が潰れることがわかった。マウントとられっぱなし。馬鹿にされっぱなし。

自尊心をとことん傷つけられた「弱い自分」を棄てられなかったあの頃。

 

「弱さの鎧」はなかなか魅力的で外れなかったけれど、ちょっとは脱げそうなのかも。

相変わらず、私のことを「弱くて、言うことを聞いてくれそう」と勘違いした挙句、どかんと怒りを落とされて傷ついた人は多々。申し訳ない。(とは思ってない。)

 

これからは、弱くも強くもなくて、そのまんまでいられたら幸せ。

この一年間、あちこちからやられっぱなしで、その理由を知りたくて相談したら「それは、日頃の行いが~という理由ではなく、あなたがそういうことを言われてしまう態度を取っているということですよ」ってずっと言われてた。

その意味がやっとここ最近、わかった(#^^#)

「ごめんなさい」という態度で生きてたら、相手も強気で来るんだよ。こいつには言えるって。

今の私は、愛想笑いをしなくなった。だけど、モテるようになった。「その怒るところがいい」とか言う人もいたな~。奇特な人だった(オイ。

 

これからもまだ、残ってる何かを昇華していくんだろう。

堂々と欲しいものを取りに行き、堂々と勝ちに行く。

それで嫌な目に遭うなら上等。最初からあきらめるよりずっとマシ。

って・・・まあ・・・その・・・あきらめたこと一度もないですけどね・・・(爆

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人生の不思議

一瞬で職場に就いて「あれ?仕事に来た記憶がないんだけど、どうしてここにいるんだろう」と言ってる夢を見ました。

夢でした・・・・

通勤がきつくなってるのか・・・

 

あまりにも魚の目が痛いので、医者に行きました。

いや~素敵な若いお医者さんに、気持ちのいい看護師さん。

当たりでした!

理由をつけて通うぞ(うそ。

 

Twitterで、親から「かわいい」と言われて育ち

恋愛パーフェクトで結婚も幸せで、相手も経営者でっていうのを

読んだんですよ。

 

まあ、羨ましいですね。当たり前に。

 

そして、その人なりの悩みや工夫があっての今だと思うのです。

決して環境や生まれつきの見た目に甘えていないのだろうことはわかります。

作家の娘もそうですが、そういう才能を持って、そのために生きる人はいるのです。

 

不公平だなあ~と思うことは昔はありました。

不公平だと思わない人のことも、羨ましかった。自分を変えたいと思わなければ楽だろうなあって。

 

わたしはその点、人生とはチャレンジで満ちているもので、それが生きる力になってきたのだと思うのです。

美人じゃなかったから、今、自分の顔が大好きなくらいに手入れして、メイクして嬉しいし、愛されることがわからなかったから、結婚してみて、子どもを育ててみて、色んな人と関わってみて、愛を知ろうとしたし。

 

もともと「そんなの当たり前じゃん」な感覚で生きてたら、何をするの?

お金儲けかな?

 

妹さん可愛いね、と言われるだけの毎日を、悔しい気持ちで生きてきたのは

「みかみさん、モテるよ」と知り合った不思議系の人に言われるためのお膳立てだった。

 

その時も「まさか」と思ったけれど、どうもそこそこ悪くないらしい(笑)

ナンパはされないし、フェロモンもそこまで出てないけど、もっと出したいけど。

 

人に嫌われるタイプだと思ってたら、全然そんなことなかった(これも仕事で鍛えられた)。

 

親から、周りから否定されてきたことは全部「できること」だったんです。

面白いで。

 

だから、褒められたから幸せな今があるんです~って言ってる人とは比べられない、違う幸せを今感じてる。

褒められてなかったところが開花するのは、意外性ですよ。

びっくりなんです。

 

それと共に「子どもを否定する言葉」を使ってる大人は多いけど(「そんなことじゃ、嫌われるよ」とか)それ、違うからって言えるようになりました。

親の価値観なんて狭い狭い。

その親自身が、お金持ちで幸せな夫婦で、世界クラスで視野が広いならわかるけど。

自分が狭い世界で嫌われずになんとか生きてきたからって、その態度を子どもにさせるのは酷だなあと私などは思います。

 

人は変われる、ってか、誰も小さい時の私に正しい評価をしてなかっただけなんだ。

 

それを自分で見つけなさいっていうことだった。

 

今もまだ、模索していることがある。踏み出せないこともあるけれど。

 

今の職場には、悔しがるほど尊敬できる目指す人がいないのです。

大好きな仲間はいっぱいいるけど。

ダンス教室にはそれがある。負け犬のような惨めさを一瞬で感じる。

だからきっと、ダンス教室に可能性があると思ってます。

自分の惨めさを受け入れる課題がある。

 

人生は不思議。

 

ところで、若い男性の面白い人がいると思って

ここでも紹介したことがあるんだけど

その人の女性観がちょっとヤバくて、もう無理になりました。

「女性はゴリラになっちゃいけない」とかさ、ゴリラのメスに失礼すぎない?

お前に評価されたくね~わ、誰も、と思いました。

ちょっと有名になると、男ってそういうことを平気で口にするよね。

それを口にしてもとがめられない美しい日本だわ(皮肉)。

 

ゴリラのメスを美しいと思えない、日本の男性の女性を見る目のなさを嘆くわ。

「美しさ」を間違えてるんだよね。すごい色眼鏡かけててね。

そこに愛はないよ。

 

日本の男の頭の中にある「理想の女の子」が二次元でしかないっていうのがよくわかる。お子様すぎるし、成長する気がない。ダンディになれないわけがここにある。

大人の男の見本がないから仕方ないか~。

 

いい男になれそうだったのに、残念。

そっとフォローを外しましたとさ。

 

おわり。

 

女の子たちにとって生きやすい世界になるといいなあ。

 

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風に吹かれて

コブクロライブに行ってきました。

はしゃぎすぎて腕が痛いです(^-^;

 

そして、今日は8時ぐらいに一度寝ましたよ。

体力つけないとライブに行くの大変!

 

いっぱい泣いていっぱい笑って声出して体動かして。

あ、デートとおんなじや(爆

デートしなくてもライブ行けたらそこそこ発散できるということがわかりました(マジ(゜-゜)新しい発見だ・・・でもなんか違う・・・

 

私が大好きな「風に吹かれて」を歌ってくれて

花道の近くで、めっちゃ生で見れたし

コブクロの歌声が進化してるし

隣の人と手を繋いで、あのほら、WE ARE THE WORLDみたいな?

心も魂も喜んだ、身体だけがちょっと悲鳴あげた、ライブでございました。

 

それでね。

書きたいネタも溜まっています。

ひとつは、不登校カフェを振り返って、のこと。

今の仕事もそうなのですが、わたしは、ものすごくはっきり境界線を引きます。

そして、助けを求められない限り手を出さないことにしています。

ね、そりゃ人は来ないわ。

通常の不登校支援のように「助けてあげます」「何とか関わりましょう」なんてやらないもの。お茶して日頃のうっぷんでも晴らしませんか?ってやってただけ。

そういうの、不登校の親に不人気(笑)

 

仕事でも「私を助けてよ」というおばさまたちがいるんですよ。

私より年配だったり、年下もいますけど、依存できる人に依存して、仕事だからこれはやってくださいねと言い放ったらキレてくる。

常に誰かにしてもらうことが習い性になってる。

わたしは手伝わないから嫌われる。(あ、自分から仕事を探してやってくれる人にはめっちゃ手伝いますw)それもレッスンですけど。

 

わたしは、不登校って、そもそも個人だけで解決できないと思ってるのね。

そういう問題じゃないと。

学校へ行けばいいのか?それで解決なのか?と、学校へ行っても、大人になって学校時代の傷で悩んでいる人とても多い。

だから、「学校へ行ったらいいよね」という話はしないし、「不登校を解決しませんか」という話もしない。

それはその家庭の、その親の、その子の、生き方そのものを問うことだから。

 

学校がセイフティネットになっている家庭なら、子どもは学校で守られたほうがいいし、学校が危険地帯なら、戦場なら、逃げたほうがいい。

不登校というものを個人の内面の問題にすり替えるのはもうやめてほしいの。

 

だから、自分を変えれば不登校治りますというスタンスの人とも合わない。

 

他人の内面に踏み込んで、「私の言うことを聞けば子どもが学校に行きますよ」という依存的なアプローチするぐらいなら、不登校支援なんてやめたほうがいいと思っています。

 

誰もかわいそうじゃないし、だけど日常の不便はあるからね。制度外に置かれるわけだから。その支援は必要。

「かわいそう支援」じゃなくて「現実支援」が大事。

不登校を悩みだと思っていない私には、悩みを解決したい人は来ない。

 

私の元には、とても強靭な精神の人しか訪れなくて

「もう心中考えちゃう」と泣きながら電話かけてきた人が

今じゃ他人の子どもの心配をしてはる。

わたしは、なにひとつしてなくて(私の言葉で立ち直られました!不思議な力を使いました!とか言いたいけどさw)、私の場に来てもらっただけです。

ほんとに強いお母さんでした。尊敬しかないです。素敵だった。

 

私自身が「かわいそうな人」を欲していないので、会として成立せず(笑)

私もそろそろ興味が別の所に移ってきたので、やめることにしたということです。

 

口先で慰めても、知識でアドバイスしてもダメなんで。そういう場には絶対にしたくなかった。それは達成されました。

 

風に吹かれて、次はどこへ行くのやら。

 

そういえば、「ここはなんだかいい場所ですね」と言われたことは何度かあり、「暖かい場にする」という技は持ってるようです。

「なんだか」というのがいいでしょ?奇跡が起きます!じゃなくて。

そういう「何かわからないけどほっこりする」みたいな空気をいっぱい作っていきたい。心の中を邪魔されないからいいんだと思う、相手から言い出さない限り余計なことは聞かないし、余計なこともしないし。

それがどんどん感染して、ほっこり人口が増えたら最高。

 

甘えさせないけど、受け止める場所。

口出さないけど、話は聞く場所。

そういうことが必要なんだと私だけが思ってる。

 

子どもに口出さない親が珍しいのは、口を出して誘導して「こうさせる」がみんな好きなんだよね。そうされるのも。誰かに誘導されたくて、いちいち口出されたくて、褒められたくて必死。

 

だらだらと長い文章を書いていますが

最後にこれだけ。

私がたくさんの困難に襲われた時、何か掴むものが欲しくてあちこち相談しました。

ほとんどの人たちが「あなたのここが問題」だとか、解決しようしようとしてきたのだけど、ある人が「大丈夫です。そのトラブルは、みかみさんが悪いのではありません。これからの人生に必要だから起きたことです。間違っていません」と言い切ってくれました。

私はその言葉が欲しかったんだなと今も思います。

解決なんて自分でするんですよ。転んでも痛い目に遭っても。

けれど、それが「あなたの性格が歪んでいるせい」だとか「あなたの生き方が間違ってるから事件が起きるんだ」みたいな解決脳の占い師って違うと思った。

わたしが立ち直ろうとしてる時に必要なのは「あなたは間違っていない」という言葉でこの痛い思いも「大丈夫なんだ、ただ痛いだけで問題ないんだ」と思ったら、ほんとに大丈夫になりました。

 

それまでも「人はどんなことがあっても大丈夫」が信条で、だから息子たちも学校に行かなくても平気でしたが(放置はしてない)、それをもっともっと拡大することができました。

 

「大丈夫じゃないよね」と近づいてくる人がいたり、私も面白そうだからとそっちに近づいていったりしましたが。

 

ね。大丈夫なんだよ。風に吹かれて生きていくんよ。

 

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