風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

ひとりこつこつとやってきたこと

一日中雨で

バイクでずぶ濡れになりました。

 

シャワーを浴びている隙に

息子がご飯の下ごしらえをしてくれました。

 

雨は優しさを連れてきた。。。

 

シャワーを浴びながら

これまでのことを考えていました。

 

私がブログを始めてから何年になるだろう。

たった一人でも読んでくれたらいいと

15年以上前に書き始めて

そのうち3年間は休まず書き続けた。

アクセスが増えることもないけれど、途切れることもなかった。

 

だから、通算で言えば、かなり多くの人の目に触れたことになります。

 

文章で食べていくことはできなくても

確実に読んでくれている人がいることが

私の幸せです。

 

先日終えた不登校カフェも、前身の「折り紙の会」から数えると

もう8年になります。

不登校カフェとして場所を間借りする前は

自宅に招いてやっていました。

毎月、人を呼べるように掃除し、コーヒーを淹れ、お菓子を出しました。

それを、離婚した時も、地震の時も、引っ越しの時も

やめようと思わなかった。

 

この積み重ねの年月を想った時

わたしは、これから、なんでもできると思いました。

 

激動の日々を送っている時でさえ

続けていたことがあった。

続けられたことがあった。

すげーなって。

 

何が待ち受けていようが、自分が積み重ねたものは

身体と魂に宿っている。

誰にもあげられない、売れない、死ぬまで持っていける豊かなものが

私の中にすでにあると思うと

震えるほど感動しました。

 

いい人生だな。

 

私の書いたものが、誰かの心の中にあるという事実。

折り紙の会で幾人かの人が、私の家を訪れてくれて、

何かを残してくれたこと。

不登校カフェでかけがえのない出会いを作ったこと。

 

これはもうすでに、過去の栄光になり

明日からの次の人生には関係ないことにもなるけれど

だって、鬱病で寝込んでいた時の絶望感、わたしには何もない、わたしは生きている意味がないと思っていた時期があったのだもの。

それを思うと、なんという奇跡が起きたのかと言わずにおれません。

 

必死で何かをやっている時には気づかない宝物。

振り返るとそこに、確かにあったのです。

 

出会いも別れも何もかもが出来すぎていて

きっとこれからも、そうなのでしょう。

 

誰かに認められたり評価されたり、パッと見で成功しているように見える人を

羨ましく思う時期もありました。

けれど、みんな必ず、自分にしかできないことをしているのです。

わたしもまた、そうでした。

誰に強制されたわけでもなく、褒められもせず、淡々と続けてきたことがありました。

確実に誰かに影響を与えてきました。

 

まだまだ突拍子もないことをするつもりですし

その顛末をここに、ブログに書いていくのかもしれません。

 

そうそう、クリムトネイルがインスタにアップされると

一気に拡散していただけたのですよ。

お店のネイルのページに私の指が出ております。

とても嬉しく思います。

 

写真や美しいものを追求しつつ、文章を書きつつ

とびきり楽しい人生を、これからも。

 

明日は大好きなコブクロライブです。

みなさまもよき一日をお過ごしください。

 

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自ら僕になるべからず

昔から私にとってあり得ないことは

「付き合った男性を憎む」ことです。

関係性が壊れたとしても、憎むことはないです。

 

それはなぜかと自分に尋ねたら「私は彼らの女中にならないと決めてるから」でした。

そういう扱いをしようとしてるよね?というギリギリのところでお別れする。

それがコツ。

 

私にとって、彼氏がいるとか、付き合ってる人がいることよりも

付き合うことが幸せであるかどうか、が唯一の基準。

だから、彼氏がいるいないで幸せを測ったりしない・・・のかも。

 

自分が恋していて、相手が私を大切にしてくれる瞬間がいいのであって

毎日毎日一緒にいることや、「付き合ってるという約束」が大切なわけじゃない。

 

瞬間の美しさ、愛しさ、楽しさを一番にしているのです。

 

さて。

 

そういうわけで、私は誰の僕にもならないので

例え女性同士であっても、言いなりになったり、その人の娯楽として扱われることを良しとしていないので、寂しい時は寂しいです。

 

けれど、人を憎むより(嫌いにはなるw)寂しいほうを選ぶかな。

 

何度も書いていますけれど、母親が、娘である私の経験をまるで自分が経験したかのように語るのがほんとに嫌でね。何も報告できない関係になりました。

他人から聞いた話を、さも自分が経験したかのように語ってしまう癖ってどこで得るのだろうね。私の中に溶け込もうとするそのメンタルが気持ち悪くて。

支配というのは、そういうことじゃないんだろうか。

 

父親はそれこそ、けっこう自分勝手で、好きなものを集め、好きなものに囲まれて暮らしたい人でしたし、子どもが邪魔だと思えば簡単にそれを表情に出す人でした。

それはそれで子どものメンタルそのもので、不機嫌で周囲を支配する感じはあったけれど、父親に「食われる」感覚はなかったです。

言うこと聞かなきゃ済む話で、抑圧感はあったけど、自分を溶かされる怖さはありませんでした。性別が違ったのも大きかったかもしれないけれど。

 

だから、今でも母親への嫌悪感のほうが大きいです。

憎むというより、ヘビみたいなイメージ。

勝手に同一化してくるんだよね。私と同じ~あなたはわたし~みたいに。

 

私の最終ステージ、ラスボスがこのイメージなんだ!って今気づいたって!

そこを感じ尽くすのが今の課題みたいです。

飲まれないように努力するのがどれほど体力のいることだったか、精神力を削がれてきたか、というのは私が一番自分に対して気づいていなくて、無視していたところ。

同じことを去年、職場でやってましたわ。しんどかったわ。

 

「あなたの経験をちょうだい」「あなたの若さをちょうだい」「あなたの行動力を見せて」という言葉にならない要求をはねのけるのにどれだけ体力使ったか。

 

「私がやってることは、あなたには関係ないので!」と大学生の時に山に登ったのは正解だったんだなあと思います。母親と一緒にいない空間だと、私は元気でいられたのです。

 

母親にある程度餌(自分自身)を捧げないと娘でいられなかったし、あの時はあれで精いっぱいだったけど、大人になっても、他人に自分を捧げる癖が抜けてなかったのね。

 

もうあげない(笑)

 

自分で自分を満たせない人と一緒にいられない、まだ今の段階の私では。

私自身が、自分の足でしっかり歩けるようにならなきゃね。もっとね。

食らいつく人が「食べつくせない」私になりたい。そしたらお互い幸せになれるね。

 

だから、私は、対男性には、ほぼ間違えないんだけど、対女性はまだ、難しい。

 

そして、自ら女中にならないこと。

誰に対しても自分を安売りしないコト。

好きで売るのと、誰でもいいから彼氏や友達になって欲しくて自分を売るのとは全然違うでしょ。

そしたら、誰も憎まずにいられるんじゃないかな、と思ったのでした。

 

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境界線を破る人でも、子育ては表面上うまくいくのよね。だから、うちの母親だってカウンセリングにかからないで生きてる。

食われた私がカウンセリングかからなきゃいけなかった。

 

だから、子どもが非行に走らないから、不登校にならないからって、親に問題がないわけじゃないといつも思う。不登校の相談を受けててもそう思う。子どもが不登校になれば、少なくとも親である自分を振り返る時間はあるけれど、子どもがおとなしく学校に行ってると、他人のことばかり見てて、自分を反省しないし、しようがないよね。うまくいってると思い込んでるんだから。

 

だから、子育てで「困る」って大事だよ。自分が行き詰まることも大事だよ。

そうじゃなきゃ気づけない。どう生きれば楽になるか、どうすれば自分が幸せか。

不登校カフェに訪れた人たちも「毎日泣いてばかりで」と言ってた人ほど、何かを得て立ち直って強くなってる。私も泣いてたし(n*´ω`*n)

 

追い詰められるほど人は強くなれる、と今は思えるようになりました。

だってそこを通り抜けるしかないものね。なんとかして。

 

ではでは~~~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相談先を選ぶこと

今日は、ちょっとだけいいことがありました。

 

ライブのチケットが行き違いでチケット会社に戻ってしまったのだけど

何とかなりそう。

ずっと楽しみにしていただけに、とても嬉しいです。

 

さっき「交友関係がある人ほど運がいい」というのを読んだんですが

わたしはそう思わなくてね。

わたし、人間関係とても下手です。

だけどとても運がいいんです。

因果関係ないですね。

 

たしかに、社会に出ないと運がいいも悪いもわからないので

人との関わりは避けられないのですが

だからって、誰とでもうまくいく(ようにみえている)人の運がいいかどうかなんてわからないです。それは「毎日が楽しい」だけで、運がいいとは別の話。

 

お金持ちだから運がいいんだ、結婚生活が長いから運がいいんだ、って言ってるようなもので、意味わからない。

 

目に視えない存在に守られているかのように、私は運がいいので

私が応援した人たちは上り調子になるのは間違いというのが、生きてきた感覚としてあります。

 

 

一時は、私だけがどうしてこんな目に・・・とどよんとなっていましたし

今でもそうなりそうな時もあります。

だけど、ピンチになった後の助けられ方が半端ないことに気づいてからは

復活も早くなりました。

寝込んでる時ってなかなかそう思えないのですが。

 

上記のように、「運のいい人は交友関係が広い」という思い込みに囚われた人に相談してしまうと、ボッチの人は救われたと思いにくいでしょうし

そういう価値観を固めてしまうだけになります。

また、男に従って当たり前、男の機嫌を損ねないことが女性の役割だと思っている人(スピでもカウンセラーでもありますよ)に相談したら、離婚したくてもできなくなったりするかも。

 

なので、自分の価値観を合わない人に相談するのは、時間とお金がもったいない、というのが私の持論です。

 

そこを見極めて、違うと思ったらお金を払っていてもやめるんです。

その勇気が自分を救う。

 

どれだけフラットな視点で世界を眺めているかが、私の相談先に求めているもの。

それがない人は、どんなに能力があっても相談できません。

 

自分自身を生きる為に必要なのは、自分自身を肯定すること。

なのに、その自分を否定しまくるような人に相談するのは、自分に対して失礼すぎです。

 

「私を怒らせるんじゃね~Yo!」と近頃のわたしは、声に出さなくても心の中で叫べるようになりました。

その前は声に出してました( ´∀` )

 

自分の尊厳を守ることは自分にしかできません。

私が激おこした相手には、私は容赦ないです。

どんなに「穏便にしてほしい」と頼まれても無理。

穏便にしてほしいと言ってくる相手は、な~んもわかってないってことです。

それぐらい、私を見くびっている。

 

偉そうにするわけでもないし、高飛車でもないし、上から目線でものを言ったりもしないですよ。

舐めたらあかん!のです。

 

自分が新米だろうが、若かろうが、女性だろうが、なんだろうが。

 

それは自分に対して思っていること。

若いからダメなんだ、経験がないから言えないんだ、女性だから男性には従わないと周りの女性からも嫌われちゃうんだ・・・みたいなね。

そういう思考が、舐められる現実を持ってくる。

 

空威張りをする人がうちの職場にもいるけれど

空威張りはするけれど、権力には弱そう。男性にも弱そう。

押さえつけられて育ったようで、押さえつけないと安心できない感じがにじみ出てて可哀想。空威張りってそんな感じ。

 

たっくさんのキツイ出来事が、私のメンタルをしっかり鍛えてくれました。

空威張りじゃない強さを作ってくれました。

そう思うと、やっぱり運がいいのね。

 

さて。

わたしは、本音を口にしてしまうほうなので、相手もつい本音を語ってくれることがあります。そして、そこから仲良し度が高まります。

本音を言わないほうがいい、という人もいるけれど

本音を言わない同士の付き合いで仕事が成り立つ時の危うさったらないよね。

陰で悪口言い合ってるみたいなね。

 

陰口すらも本音じゃない、みたいな・・・。ホラーですか、この世界は。

 

自分の気持ちをごまかしてる人とか、気づいていない人って

たいていその「本音を言わないほうがうまくいく」派なんじゃないかなあ。

 

自分を知られることが怖いし、自分を知ることも怖い。

それで何となく人生流れても困らないけど、面白くないよ、私には。

 

昨日も書いたけど、私は人を世界をたぶん、めちゃくちゃ信じてるから自分を丸裸にしてしまうんだけど、信じられてない人は、自分を隠して、他人を丸裸にしようと躍起になるんだよね。危険な目に遭うでしょ?って言われることやってても遭ったことないよ。

信じてるの、私が出会う人は間違いないって。

 

それで嫌われてが~んってなるんだけど

それでも嫌いにならないし、好きでいられるお人よし。

 

世界を信じるってさ、嫌なことが起こりえないことではないし、みんな優しいよ~と吹聴することでもなくて。どんなことがあっても、きっとよくなると信じることじゃないのかな。

 

そんなことを思った今日でした。

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護る

今日は暑いらしいのですが

私の家は山の上のほうなので、とても涼しい風が吹いています。

居心地いいです。

 

避暑に来てね(#^^#)

 

今日もゆっくりしているので、SNSを眺めていると

「ひどい目に遭ってきた女性が、剣術を必死で学びに来た話」(ざっくり)があがっていました。

それを読んで、自分のことが腑に落ちました。

 

虐待や他人からの暴力に晒されてきた場合

我慢する人になるか、同じように我慢を強いて憂さを晴らす人になるか、反撃の力をつける人になるか、個性によって変わるんだろうと思います。

それでね、反撃する人に対して「やりすぎ」「防衛しなくていいことに気づいて」みたいなことをしたり顔で言う人が出てくるわけです。

 

私も、身体的暴力を受けていたら、反撃する力をつける人になる人だろうと思うのです。幸い、それはなかったけれど、それぐらい、負けず嫌いだし、戦いたいと思うから。

 

で。私の場合、「言葉で反撃する力をつける」という方向に向かいました。

言葉で痛めつけられてきたから。

言葉でやり返すしかないと思っていました。

 

自分を守るために。

言葉を自由に操れるようになることで、相手の弱点を叩きのめすしか、黙らせる方法はないのだと思ってた、というか、それぐらいの痛手を負っていたということです。

 

痴漢を捕まえて、痴漢が殴ってきたから殴り返した、という勇ましい話があって

そっか、言葉で被害に遭っても、反撃しても、被害に遭った証拠がないから私がいつも加害者にされるんだなとも感じたことがありました。

 

自分自身が、言葉による防御をしていたことや、常に言葉の暴力に晒されてしまう戦場で戦っているような錯覚の中で生きてきたことに気づけたことは、今日の大きな収穫です。

 

それにしても、どうして素直にそう思えたかというと。

それは、相手に反撃できるようにと武術を学んだ彼女に対して、師匠であるその人の視線がとても優しかったから。

彼女の奥底にあるものを感じ取って、でも、否定も批判もせず、ただ「そうなのか」と深く受け止めたその師匠である人のすばらしさに胸を打たれたからです。

 

裁かず、教えて、去っていくのを眺めたというその一連の流れを読んだ時、自分の中にある「反撃しなきゃやられる」という幻想が素直に顔を出してくれたのでしょう。

 

武力に対して武力で立ち向かうのはどうかという人がいるけれど

そこまでの恐怖を感じたことのない幸せな人が言ってるんだろうなと私は思ってしまうし、我慢してやり過ごすタイプの人が、反撃せずにはいられない人を理解できないからなのかしらと想像してみるしかありません。

 

武術をやっている人は、「これを使えば人を殺めてしまう自覚」があるからこそ、やられっぱなしだった女性に宿ったものについて、大きな視点で見ることができたのではないだろうかと思うのです。

 

もしこれが普通の人だったら「あなたが心の中にある戦いを終わらせないと」みたいな説教で終わっただろうし、そんなことしたって、彼女を止めることなどできなかったでしょうね。

 

私も同じだから。

 

自分が受けた傷に対して、相手がどこまで理解してくれるか(同情じゃなく)によって変わるのだと思うから。

 

ちょうど二年ほど、周囲からあり得ないほどの攻撃に遭い始めて、私は反撃できる自分に気づいたり、仲間の存在に気付けたりしました。

けれど、攻撃は終わらず。

やられっぱなしで泣いていた頃の私は卒業したけれど、攻撃の度合いはどんどん酷くなっていきました。

 

まるで、敵がどんどん強くなるRPGのようで、自分の攻撃力をあげないと対処できないように感じていたのがちょうど年末ぐらいまで。

 

私は思うのです。

自分の中の戦争を終わらせたところで、言葉の暴力を使っている人は消えない。

だけど、その人も戦争の中にいるのだから、相手の戦場に入る必要はないかもしれないと。

 

危険な目に遭ったことのない人や、遭っても守ってくれる人がいたり、ひとりで戦う必要のない場合、戦わざるを得ない心境の人の気持ちを逆なでするようなことを平気で言いますね。

 

強くなりたい、強くなってひとりでも生きていかなきゃいけない、攻撃力も防御力もMaxでないと安心できない。

 

この恐れを手放すことができる時、それは本当に心から「わたしはもう大丈夫」と思える時だと思うし、安心して生きていける環境に辿り着いた時でもあると思う。

 

傷が生々しい時に、それは無理なのだ。かさぶたになってもなお、痛い。

その痛みに寄り添ってくれるような文章に出会った時、わたしは癒される気がします。

 

パートナーができた、仲が良くなった、お金が入ってきた・・・

いちいち、そういうことを書かなければ幸せを見せつけられないと思っている女性たちが増えていて、ますます武器のない戦争状態が激しくなっているようにも思えるのですが。

だからこそ、表面上の日常がどうあれ、心を語る場を作ってきたのだなあと思います。

それが私自身を癒す場でもあったし。

 

自分が作ったそういう場をやめて、これからどこに行くのかわからないけれど

戦士たちを慰めるようなところかもしれない(岩崎宏美の歌にそういうの、あったね)気がしているのです。

平和に見えるけど、戦争を生きてる。

武器を棄てろと迫ってくる人は、丸裸になったその人を守らない。だから、そんな正論を言う人のことなど聞けない。

わたしは、蹴散らしていく。そういう腐ったところを全部。それがもう、護る必要のない自分の使い道。

 

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寂しい

寂しいは寂しいんだよ。

 

パートナーを思い通りにしたいからひとりが辛いんだろとか

自立してないからだとか

目の前の幸せがわかっていないからだとか

 

たくさんの説教が溢れているけれど

 

寂しいから寂しいんだよ。

 

その寂しさをしっかり味わえる人が強いんだと思う。

 

なんとなく友達がいて、なんとなくパートナーがいて

なんとなく親兄弟子供がいて

だから寂しくないなんて言ってる人よりも。

 

ひとりの寂しさを「寂しいの」と人に言える人になりたい。

 

たとえ何を言われてもかまわないくらいに

当たり前に寂しさを語れる人がいい。

 

寂しいけど何か?死ぬときはひとりなんで。

 

心の底からそう思えるまで、わたしは遊んでくれる人を探し続けるし

寂しさとも向き合っていくつもりだ。

 

学校という場所から子どもが離れた時

学校に依存している今の制度の中の人たちが見えた。

離婚をして、家族という制度の中に安住している人たちが見えた。

 

それが幸せ、それが当たり前。

そのプレッシャーと周りの空気、テレビや雑誌の雑音から身を守るのが精いっぱいだったし、当たり前を正義とも認識しないで押し付けてくる(という自覚もなく)なんの悪意もない言葉に打ちのめされることもあったけれど。

 

まるで寂しいと思うことが、その人の欠点であるかのように言う人の言葉を真に受けないだけの自分にはなったと思う。

 

拗ねてるんだろう、本当は友達欲しい癖に。

そんな意地悪も聞いたけど。

 

それも全部、自分が自分に言っていることだった。

 

寂しさに沈みながら、溺れないように、たまに浮き輪を求めてさまようのもまた、楽しい。

見せかけの幸せや団らんよりも大切なものを手に入れたいと思ったあの、遠い過去の自分が、今を連れてきたように思う。

 

寂しいと言ってる人を見下すだけのアドバイスを聴く必要などないと思うし

だけど、寂しさというものは、人が生きている限り逃れられないと私は思う(だって、究極人はひとりだから)ので、寂しいと何度言ってもいいと思うんだ。

 

わがままをぶつけられる相手が側にいるからって、それは偉、わけでもなんでもなくて、わがままを言える相手がいない人が自分で対処しているノウハウのほうが尊い、私の場合は。

 

男が女に甘え倒して、見ず知らずの女性にまで気を遣わせて、暴言吐いたりするけれど、それは「寂しい」と言えないことも原因の一つだと思うし、ひとりでいられない男に説教する人がいなくて、ひとりでいられる女性にだけ説教する人が現れるのも不思議な現象だと思う。

 

男も寂しさを自覚して、パートナーがいない幸せもあるよって思えるといいんじゃないかな。

そしたらセクハラも減るかもね。

 

合言葉は「寂しい」で入れるお店があったら面白いな。

「寂しい、こんにちは」「寂しいですね、今日も」とかあいさつしあったら楽しそう。

妄想広がる~

 

どんな感情になってもいいから、手放さなくていいから。

「寂しいぜ、v( ̄Д ̄)v イエイ」のままでいよう。

 

ということで、おやすみなさい。

 

眠りの浅い友人にエールを送ったので今日のわたしは満点です。

 

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あるある

 今日はネイル。

ずっと気になっていた「クリムトネイル」を梅田にまで行ってしていただきました。

 

そのお店なら誰でも同じデザインしてくださるんですけど

何と!その私が一番好きなデザインを考案した方に担当してもらえたんです。

 

しかも、私の職場の近所に住んでいらっしゃることが判明。

 

そういうこと、わたしにはよくあるのです~~~。

 

さすが、本格的なネイルサロンだけあって、出来栄えに100%満足。

デザイナーさんも「これ、私の好きを全部詰め込みました」とのこと。

アートが爪になってます。ん?爪がアートか?どっちでもいいわ(笑)

これだから、ネイルはやめられんのです。

 

あるYouTubeで「苦手なことは取り組んで損はない」ということを聴きまして、なるほどなあと思いました。

そもそも「苦手」と思い込むほど「得意になりたいこと」なのです。

特にいらないものなら、気にもしない。

逆立ちできないけど、興味ないしね、苦手だからと悩むこともなかった。

 

だけど、美術方面は好きになりたかったし好きだった。苦手な自分が悔しかった分野。

何のご縁か、折り紙教室を5年以上毎月やってたら

いつの間にか、そこそこ折れるようになってたのです。

綺麗じゃないけど、展開図を見ればなんとなくわかるようになってきた。

 

そして、服やインテリアも、やっぱり好きだった。

学生時代は苦手意識の塊すぎて、適当な服を着ていたなあと思うけれど

それでも、着物の見る目はあったし、センスではなくて「お金がないから無理」だと決めつけてた。

 

ダンスもホントに苦手なのに、学生時代から実は好きだった。

少しだけ知り合った人の娘さんがダンス教室やってたりして、それもまた、羨ましくて仕方がなかった。

 

自分に必要がないものには目が行かないし、羨ましいとも思わない。

だから、苦手意識というのは、「やりたい」「欲しい」の究極の表現だと私は思います。

 

お料理やブログを書くことなんて、何とも思わないでできてしまう。

好きだからやってるだけで、そこに向けて特に意識したりしないものね。

 

他にも。人前で何かをするのがとても苦手だと思っていたのに

今や小学校で手遊びやってるし、研修もするし、会議になれば過激な意見も言ってしまう。昔のわたしはどこへ(遠い目)。

あんなに「あがり症を克服したくて」ボイスレッスンに通い、ひとりで舞台に立って歌ってみても足が震えて「むり~」ってなったのに。

ということは、人前に立ちたかったんだ、本気で克服したかったんだ。

 

一生人前に出ないって決めてたらわざわざ克服しようとしないはず。

 

人生って不思議。

 

そういうわけで、小さい頃に苦手だと思っていたことや、克服したいのに難しいことは、大人になってできることも多いし、むしろチャレンジしたほうがいいんじゃね?という話でした。

 

男性と話すのも苦手だったのに、変ねえ(笑)←わかる人にはわかる。

 

経験と時間と数をこなせば大抵のことはイケると思います(#^^#)

 

バラの写真がいっぱいあるの。

 

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負けず嫌い

昼間の暑さったら。

 

今日で最後だと思ったダンス。

先生もなかなかのやり手だった。

なんで今日に限って上手に踊れるんだ(笑)

 

とりあえず月一で続けることにした。

 

で。

 

ダンスを始めたきっかけや

今ちょっと体調不良なことを伝えると

心配された。

 

いやしかし、ダンス教室では別に猫を被っているわけではなくて

本気出せない空気だからおとなしいだけなのだけど

相当誤解されている気がした。

 

「そんなやわじゃないけどな」と思った瞬間から気持ちが復活した。

 

ほんまに負けず嫌いなんやわ。

 

誤解されたまま終わりたくないと思ってしまった。

 

んで。闘志がわいたら、自分の本音まで心の中に復活したみたい。

私の心を燃やすのは、負けず嫌いの自分になることだと思った夜。

平和や平穏な日常ではすぐに鬱になってしまう。

 

別に争いを見つける必要はなくて

ただただ「くそ~~~」と思うだけでいいので。

そういう自分が結構好きかもしれない。

 

誰もが描く平和でお互いに言いたいことも言わない風景が漂ったら

わたしは退屈で出て行こうとするだろうと思った。

 

やんわり上から押さえつけられるのが大嫌いだし

人を教えてやろうとする人も苦手だ。

いつも誰とでも対等でありたい。

当たり前だけど、神様とも対等だと思ってる。

 

違うステージへ。

 

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