自ら僕になるべからず
昔から私にとってあり得ないことは
「付き合った男性を憎む」ことです。
関係性が壊れたとしても、憎むことはないです。
それはなぜかと自分に尋ねたら「私は彼らの女中にならないと決めてるから」でした。
そういう扱いをしようとしてるよね?というギリギリのところでお別れする。
それがコツ。
私にとって、彼氏がいるとか、付き合ってる人がいることよりも
付き合うことが幸せであるかどうか、が唯一の基準。
だから、彼氏がいるいないで幸せを測ったりしない・・・のかも。
自分が恋していて、相手が私を大切にしてくれる瞬間がいいのであって
毎日毎日一緒にいることや、「付き合ってるという約束」が大切なわけじゃない。
瞬間の美しさ、愛しさ、楽しさを一番にしているのです。
さて。
そういうわけで、私は誰の僕にもならないので
例え女性同士であっても、言いなりになったり、その人の娯楽として扱われることを良しとしていないので、寂しい時は寂しいです。
けれど、人を憎むより(嫌いにはなるw)寂しいほうを選ぶかな。
何度も書いていますけれど、母親が、娘である私の経験をまるで自分が経験したかのように語るのがほんとに嫌でね。何も報告できない関係になりました。
他人から聞いた話を、さも自分が経験したかのように語ってしまう癖ってどこで得るのだろうね。私の中に溶け込もうとするそのメンタルが気持ち悪くて。
支配というのは、そういうことじゃないんだろうか。
父親はそれこそ、けっこう自分勝手で、好きなものを集め、好きなものに囲まれて暮らしたい人でしたし、子どもが邪魔だと思えば簡単にそれを表情に出す人でした。
それはそれで子どものメンタルそのもので、不機嫌で周囲を支配する感じはあったけれど、父親に「食われる」感覚はなかったです。
言うこと聞かなきゃ済む話で、抑圧感はあったけど、自分を溶かされる怖さはありませんでした。性別が違ったのも大きかったかもしれないけれど。
だから、今でも母親への嫌悪感のほうが大きいです。
憎むというより、ヘビみたいなイメージ。
勝手に同一化してくるんだよね。私と同じ~あなたはわたし~みたいに。
私の最終ステージ、ラスボスがこのイメージなんだ!って今気づいたって!
そこを感じ尽くすのが今の課題みたいです。
飲まれないように努力するのがどれほど体力のいることだったか、精神力を削がれてきたか、というのは私が一番自分に対して気づいていなくて、無視していたところ。
同じことを去年、職場でやってましたわ。しんどかったわ。
「あなたの経験をちょうだい」「あなたの若さをちょうだい」「あなたの行動力を見せて」という言葉にならない要求をはねのけるのにどれだけ体力使ったか。
「私がやってることは、あなたには関係ないので!」と大学生の時に山に登ったのは正解だったんだなあと思います。母親と一緒にいない空間だと、私は元気でいられたのです。
母親にある程度餌(自分自身)を捧げないと娘でいられなかったし、あの時はあれで精いっぱいだったけど、大人になっても、他人に自分を捧げる癖が抜けてなかったのね。
もうあげない(笑)
自分で自分を満たせない人と一緒にいられない、まだ今の段階の私では。
私自身が、自分の足でしっかり歩けるようにならなきゃね。もっとね。
食らいつく人が「食べつくせない」私になりたい。そしたらお互い幸せになれるね。
だから、私は、対男性には、ほぼ間違えないんだけど、対女性はまだ、難しい。
そして、自ら女中にならないこと。
誰に対しても自分を安売りしないコト。
好きで売るのと、誰でもいいから彼氏や友達になって欲しくて自分を売るのとは全然違うでしょ。
そしたら、誰も憎まずにいられるんじゃないかな、と思ったのでした。
境界線を破る人でも、子育ては表面上うまくいくのよね。だから、うちの母親だってカウンセリングにかからないで生きてる。
食われた私がカウンセリングかからなきゃいけなかった。
だから、子どもが非行に走らないから、不登校にならないからって、親に問題がないわけじゃないといつも思う。不登校の相談を受けててもそう思う。子どもが不登校になれば、少なくとも親である自分を振り返る時間はあるけれど、子どもがおとなしく学校に行ってると、他人のことばかり見てて、自分を反省しないし、しようがないよね。うまくいってると思い込んでるんだから。
だから、子育てで「困る」って大事だよ。自分が行き詰まることも大事だよ。
そうじゃなきゃ気づけない。どう生きれば楽になるか、どうすれば自分が幸せか。
不登校カフェに訪れた人たちも「毎日泣いてばかりで」と言ってた人ほど、何かを得て立ち直って強くなってる。私も泣いてたし(n*´ω`*n)
追い詰められるほど人は強くなれる、と今は思えるようになりました。
だってそこを通り抜けるしかないものね。なんとかして。
ではでは~~~