真面目の意味って
わたしはよく「真面目ですね」と言われるけど
実は全然真面目じゃない。
そもそも、人の言うことを素直に聞かない。
高校時代はゲームセンターに通っていたし
今も仕事よりゲームしたい気持ちがつよいぐらい
仕事や家事を「まじめに」やるつもりなんてない。
綺麗な服を着て、お化粧して、本を読んで、絵を眺めたり
美しい自然の中にいたい。
美しい建物やインテリアの中に入りたい。
怠惰でうっとりするようなものが好きで、だらだらと恋人と過ごして生きたい。
それが私の正義であるし、理論が通らない美しくないものは嫌いだ。
「先生の言うことを丸っと信じ込むまじめさ」や「親の言う通りにするまじめさ」「先輩の言うままに動き、人を殴れと言われたら殴ってしまうまじめさ」が大っ嫌いだ。
だけど、人は、私のような筋を通す人間を「まじめで面白くない」と評してきた。
そして、育った環境で植え付けられたことをそのまま信じ込み、差別したり、いじめたりすることを「まじめに」やってしまう人たちは、「俺たち、わたしたちは、まじめじゃないんだ、融通が利く人間だ」と言う。
まったく意味が分からない。
人間にも人生にも正解はない。
にもかかわらず、「まじめじゃない」と自分自身を間違った受け止め方をしている人たちは、「これが正しい、なぜなら親が言ってたからだ、会社が言ってるからだ」と思ってる。
自分の頭で考えない。自分の言葉も持たない。
それでは誰も心を開いてくれないだろうと思うけど、そういう人たちは、そういうつながりで、うっすくうっすくつながっているみたいだ。
わたしは「まじめに」本の世界や美の世界に没頭することができる。
人に押し付ける為じゃなく、自分の研究のためにあらゆることを試している。
今日はまったく理屈がなっていないことを言われた。
昔なら、おおいに怒っていたところだ(笑)。
けど、今は違う。
大変だなと思う。理屈に合わないことを信じていることにも、そうやって考えずに生きられることを。
その人に間違いを教えてあげることは、迷惑なことなんだろうと思うからやらない。
その人は間違いを認めないだろう。きっと混乱してますます私に反発するだろう。
だから、やらない。
私は親切ではなくなった。自分を守るため、無駄な軋轢を避けるため。
いつか、その人は気づくだろうか。
わからない。気づかないかもしれない。
それでもいい。
それでもみんなで幸せになればいいから。
こういうことを考えている私は、やっぱりまじめなのかもしれない。