風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

連鎖から逃れることの大切さ

やっと体重が戻ってきた。

記録的なやせ過ぎの体重を記録しておけばよかったとちょっと後悔してる(笑)

それぐらい、私は体重が増えるのを恐れてるんだけど。

でも、元気な方がずっといい。

 

疎外感を感じていた頃。

集団に入りたくて、入れない自分を持て余していた。

いつも自分と集団の中の人と何が違うのかを観察していた。

観察眼は手に入れたけど、疎外感はいつまでたってもなくならなかった。

 

集団から求められない人間はどこに行けばいいのだろう。

それが不安で彷徨っていた。

 

家族から疎外感をもらった私は、私以外の人たちはみな集団に同調して生きているようにしか見えなかったからだ。

 

でも、本当はそうじゃなかった。

人は「ひとり」なのだ。

 

海外のドラマを見るとよくわかる。

つるんで仕事をする人なんて出てこない。

ああ、マフィアとかそういう人たちはいつもつるんでいるようだけど。

海外ドラマのいいところは、いちいち家族を出してこないところ。

べったりした人間関係が素晴らしいと思わせないところ。

クールでユーモアがあって寂しくて。だからこそ、お互いを大切にしている。

 

そういう付き合いができる関係性が私の理想だった。

 

やっと自分自身が、そこに近づいた気がする。

世界が自分を中心に輝き始めた。

 

親の真似をする幼児期から、他人の真似をする子ども時代を経て

自立する道筋をうまくたどれればいいのだが

そこは社会や家庭の問題が絡んで人によってその段階に時間がかかるものだ。

 

わたしは、どうすれば自分を埋没させられるかに意識を奪われていた。

頭脳の意識では「目立ちたくない。隠れていたい」と言ってても

本当の自分は、ただ普通に自分自身のままで生きたいと思っていた。

その矛盾が自分を苦しめていたのだと今ではわかる。

 

どの集団も、いつも問題を抱えていたし

その中で、過剰に気を遣う人や、支配したがる人が常にいて

自分自身であり続けることはとても難しいと思っていた。

私の中にある疎外感との闘いが常に待っていた。

 

けれど、今世界を見てみると

誰もが孤独感と疎外感をどこか感じて生きていることがわかる。

隣にいるパートナーにも話せないことがあるっていう人たちがいて

その人たちの話を聴けるようになったのは、

疎外感を抱えていたおかげじゃないかなと今は思ってる。

 

人は、ひとりになりたくなくて、無茶をする。

虐待してみたり、支配してみたり、注目されようとしたり。

すべて誰かと繋がっていたいという願いのような気がしてる。

 

つながりたい気持ちは否定しないし、必要だと思うけど

空間の中にひとりでいることを「寂しい」だとか「みじめ」だとか思う必要はないんだ。

 

わかりあえないことと、わかりあえることの間には

透明なガラスの壁があるんだけど

ガラスの壁だからちゃんと見えるし、物理的な理解をやめれば

超えられる瞬間も待っている。

 

つながりを過剰に求めるが故の、負の連鎖を私はやめたくて、こうして生きてる。

 

一緒に暮らさなくても、仲間じゃなくても、しゃべらなくても。

出会った人との絆は切れない。

自分が愛したい人は愛せばいい。それだけのことだと思う。

 

「同じことを考えてほしい」「同じような思考でいてほしい」「同じ行動をしてほしい」と思うことをやめればいいだけだ。

 

わたしは、私の望む人間関係をすればいいので

誰かから見て寂しそうだの、辛そうだのと言われる筋合いはどこにもない。

今の私の中にある、とても豊かな経験値をこれから分かち合っていくのだろうということを、私は知ってる気がする。

 

自分自身を生きていくことを恐れて、他人を犠牲にしないこと。

それが連鎖を止める、逃れる方法だと今は思ってる。

ひとりになってからが本番だ。

 

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太陽の塔もひとりでたってる。