囚われないで自分自身でいる
こんにちは。
久しぶりに息子と食事。
いいもんですね。
昨日、YouTubeの動画占いで「スピと現実の融合をする」という結果が出て、
なるほどな~と思いました。
昔からそういう生き方です。
占いしてるからそれでいい。霊能者だからそれでいい。
という思考停止をされているのを見ると「い~~~~(-"-)」てなる。
でもそれを分かち合う人がいないのはとても寂しかったです。
だけど、結婚生活にしても子育てにしても
わたしは「自分の理想」になるべく生きてきました。
誰がなんといおうと、共働きで、家事育児は半々にする。
不登校を受け入れて、でも、キラキラ不登校じゃなくて、困難という現実も冷静に見て、発信していく。
たったひとりぼっちで始めたことばかりで
今でもそうなんだけど
だけど、誰かと一緒だから「誰かの理想に見える生活」ってのは
違うと思ってました。
だけど、自信がなくなる時もあり、自信を失わせるように見える出来事もやってくる。
そんな時。
またまた、いろいろな方面から「自分自身であり続ける大切さ」を教えてもらうのです。
絶対的な自信を持っていいって。
どんなに御託を述べている人たちも、自分が言ってることとやってることが乖離していると、私は信頼できないんですよね。
「男女平等」と口で言うなら、やってみなきゃだめなわけです。
息子にも料理掃除洗濯、私は全部やらせてますし、そこに言い訳は一切ない。
男なんてと言いながら、男のコーヒー淹れてる場合じゃないんだってば。
息子の世話してる場合じゃないんだってば。
「理想を生きる」ってそういうことでしょ。
決して不思議現象を起こすことじゃないでしょ。
外側からどう見えようが、自分自身が自分に間違いなく正直に生きるだけで良い。
だから、その人の行動を見ると、何を言ってたって、本心はそうじゃないんだなっていうのがわかります。
むしろ行動でわかります。
その人が何を求めてそれをやっているのかが。
こうあるべき、とかではないよ。
わたしが望む自分になる、ということ。
人に理想を語るだけの人物にはなりたくないっていうのが、私の理想の姿だから、だから、自分に厳しい時もあるし、自分に容赦なくダメ出ししてたし、叱咤激励しつつ世間に染まらないで生きてきたのだろうと思いました。
で。
ちょっと話題はそれますが、
最近、オカルトで有名な秋山さんの動画をよく見るんです。
スプーン曲げが流行った時に子どもでしたし、そもそもUFOとか大好きでしたし。
オカルトを頭から否定する気持ちがわからないしオカルト好きですよ。
なぜ、秋山さんがいいかというと、オカルトに対しても筋が通っているからです。
変な感情や常識を入れ込まないという信頼があります。
「あなたに祟りが」とか「これを見ると悪いことが」っていう脅しもない。
淡々と「あるもの」として語られている。
やっぱりここでも「科学者的態度」と言いますか、「情」というものに支配されない態度といいますか、オタク的な追求があって良いです。
宇宙人にしても幽霊にしても、人間てば自分の「いいように」作り替えますよね。
例えば、こう思えば人を支配できるだろうとか、こういう風に扱えば誰かに評価されるだろうとか。おそらく、神様にしてもそうでしょうね。
他人を屈服させるためにそういう存在を使うのだとしたら、それはもう本質からずれているわけで。
情を交えない宇宙人や霊の解説、あるいは、情を交えない引き寄せの解説は
すっと頭に入ってきますし、自分の理想とするところに一致してくれます。
100%の自分でいると、社会からはみ出ることもあるし、疎外感を味わうこともあるけれど、それしかできないんだから仕方ないし、相談したところで「自分自身から外れる方法」を教わるのも違う気がするし。
前の職場までは、自分自身であることにいまいち自信が持てなくて
それを「認めてほしい」あまりにすったもんだしたのだということが
今ではわかります。
最初から私は私のままで良かったんです。
最終的にそう認めたからこそ、仕事を離れることになった。
この自信さえつければ、あの仕事での私の役割は終わったも同然です。
これからは、「わたし」を表現するための作戦会議の時間です。
ちょっと外国っぽい写真を撮りました。
日本です。近所です。
ベンチの奥につつじあるしね~(笑)
素材に使えそうな写真たくさん撮れて幸せな一日でしたよ。←昨日
260円で一日自分の庭~と思って過ごせる場所です。「わたしってこんな庭を造ったのね!素敵だわ~」と自画自賛するのにお勧めwww