純愛なんて死語になればいい
今日もすこぶる暑い。
先日、温泉に行ってすっきりしたはずが
翌日はまったく動けなくなり
一日中「ちはやふる」を観て過ごした。
昔のことを思い出してちょっと湿っぽくなりつつ
わたしは新と太一のどちらが好みか考えてたけれど
オタクっぽい新が好きでも、現実は太一に引っ張られるんだろうなと
千早になれないことなど忘れて妄想する始末。
それにしても逃がした魚は大きかった。
恋愛について考えることが増えた日々ではあるが
つくづく離婚して良かったのではないだろうか。
不倫は純愛などではないと言い切る占い師や探偵のツイートを見るにつけ
じゃあ、結婚のどこが純愛なんだよと私は思う。
不倫するような夫と生活を共にするのが純愛なのか?
もし、不倫する夫を愛せる自分を純愛だと思いたいのなら
不倫相手だって、妻がいるのに愛してる自分を純愛だと思うだろう。
そんな簡単なこともわからないなんてどうかしている。
レスである夫に不満だから風俗に行く女性もいるし、ホストにハマることもあるだろうが、それすら、女性にとっては「純」な行為として他人に演出することは簡単なことだ。
では、この世に恋を伴う愛はあるのか?
お互いを縛りあう愛以外にどこにあるのか?
私が思うのは、他人に愛を査定されてはならないということだ。
誰かに「これは本物の愛ですね」などと言われるようなものほど偽物。
どんな感情も、自分の内にあり、言葉にできることなどなく
ただ静かにそこにあるものではないだろうか。
だから、あれは純愛だ、あれは偽の愛だ、と
誰かが勝手に決めつけることほどおかしなことはない。
つまり、誰かに見せつけるような愛は演出されたものに過ぎず
本当のことは、誰にもわからないのだろう。
人はすぐに不安になる。自分の感情を疑ってしまう。
だから、誰かに見てもらって確信を得たいと思っているし
他人からの評価で自分を安心させておきたい。
それがお付き合いだの結婚だのと言われるような「形」にしているだけだと思う。
形にこだわるあまり、「誰でもいいから付き合う」人も多い。
お見合い結婚が普通の田舎では、恋愛が存在しないまま家族愛に突入してた人もいるだろう。
だから、自分の感情に素直になる人が増えた今
お付き合いも結婚も「できない」じゃなくて「しない」女性が増えたのは
当然のことだろう。
わざわざ男性をあてがわれなくたって、幸せになれるんだし
男性と会いたければ会えばいいだけである。
特定の相手と一緒にいる形式を「愛」と呼ぶのは、わたしにしてみれば形式にこだわって、頭の中で愛を創り上げてるだけのこと。
自分の中にわいてくる感情や芽生える気持ちを押し殺してでも、
一緒にいる人にだけ固執することを
愛と呼んでいいのかと、疑問に思っている。
「ちはやふる」を観ていて楽しいのは、千早も詩暢もかるたが好きすぎて
男性のことをほとんど考えていないことだ。
男はもう、ちはやがいいだのしのぶちゃんがいいだのって言うだけだけどさ(笑)
本質はそこにあって、夢中になれるものと家族がいれば、人は暮らしていけるものなのかもしれず、恋はオプションになっていくだろうということ。
だけど、今も昔も男たちの関心は、女性を手に入れること、それだけで男同士のマウンティングをしてしまっているから、女性の気持ちとの間にどんどん溝が生まれてるんだろうということ。
これはまた、別の話になるけれど、男たちの「満たされない感」は、一生続くのか
高齢男性の恋愛したい熱(しかも、ベクトルを間違えてるのでとても見苦しいのだが)
を見ていると痛々しくさえある。
よほど、母親から満たされなかった何かがあるのか、それを自分自身で解決しないまま女に満たしてもらうことしか思いつかないみたいな。
自分の男としてのアイデンティティーが「性欲」でしかないのか!他に見つけようともしないのか!という驚き。
そして、そういう高齢男性のそばには、妻という存在が必ずいるのである。
公共施設で大声を出して自分を主張するような高齢者になるより
女性にネットで絡んでいくほうが世間的には助かるのかもしれないけど
世の中に素敵な高齢女性が溢れている今。
素敵なダンディなおじいちゃんが増えないのは、日本の悲しみの一つであると思う。
コスプレ好きなら、迷わず英国紳士のコスプレを選んでほしいものだ。
ああ、暑いからハワイの陽気なおじいちゃんとかも、いいよね。
話は逸れたけど。
こちらから恋愛したくなるような男性は、いくら男が人類の半数だとしても
特にこの国では多くないし
だからこそ、女性も必死なわけだけど
いつか純愛は死語になってくれて
愛そのものの理解がもっと進むといいのだが。
勘違いの脳内恋愛で、間違った相手を攻撃することがありませんようにと祈るばかりだ。