聞き流すのが正解
ハローワークで苦手なタイプの人に当たってしまい
凹んだから美味しい昼ご飯を食べることにした。
人を不快にさせてる人には自覚がない。
私は、悩んでたくさんの人に、私のことを聞いてみた。
繊細な人ほど、どう思われてるか知りたくなるし
自分が人に迷惑をかけてないかどうか気にしてる。
どう思われようが、迷惑かけようが全然自覚のない人は
誰の意見も聞くことはないし、耳を貸すこともない。
だから、結局、アドバイスをされてしまうのは
いつもいい人で、気を遣うからこそ、人の意見を聞いてしまうのだ。
カウンセリングを受ける人は、ある程度自分を理解しようとしているけれど、
世間の多くの、人を凹ませるタイプの人は、自分がカウンセリングが必要な人間であることを自覚すらしない。
この矛盾を、世界は解決していない。
いじめっこはカウンセリングを受けないのだ。
カウンセリングをする側にまわったりする。
本職の臨床心理士たちは、お互いのケースを話し合い、自分たちもスーパーバイザーをつけてクライアントになって訓練されるけど
適当なところで資格を取った人たちは、そんなことすらしていない。
それがたぶん、弊害になってるんだろうなと私は思う。
なので、誰の言うことも、聞き流すのが正解なのだ。
本気で誰かを守ったり育てたりしたことのない人が
「誰かの傷をほじくり返す権利」などない。
しばらく前までは、そんなことをしようとする人が増えてきてたから心配してたけど、最近では軽い占いにみなが移行していて、ちょっと安堵している。
占い程度でいいのだ。
悪い結果は聞き流していいし、誰の言うことを聞くかも自分で選べばいい。
私は以前、すべてを受け入れようとしていた。
私の欠点を見つけ出しては言いたがる人たちの餌食になった。
自らそうなろうとした。
自分の中のすべてを悪者にすることが、贖罪だと思っていた。
だから、そういう人たちを呼び寄せては、私が自分で自分を攻撃するように仕向けたのだと思う。
それがわかったのは、西加奈子の「i」という小説を読んだからだ。
「あなたは恵まれてるんだから」という言葉で、私は自分の中の寂しさや悲しみを「人に言わない」ことに決めたことや、傷ついていないことにする、という風に自分を作り替えたことを思い出した。
本当は何も恵まれていなかったにも関わらず
私のことをそう見ていた人がいて、その人の視線を私は取り込んだ。
家が大きい、両親に恵まれている、長女でおさがりの服を着なくていい、親にひいきされている、勉強ができる・・・
何でもよかったんだろう「あなたは恵まれてるんだから」という呪いの言葉は
私を支配した。
今、私は自分を罰する気持ちがない。
かつての10分の一か100分の一にはなったと思う。
だからもう、誰の言葉にも支配されないし、無駄な時間を誰かの支配欲のために使ったりしない。
人の中にある罪悪感を餌にする人はたくさんいる。
お金に換えたり、自分の精神的な安心感に換えたりする。
自分を罰する心を持った人を瞬時に見抜いて、近寄って、搾取する。
その巧妙さに、私は何度もやられたし、それは自分の希望でもあったのだろう。
自分のうちにある罪悪感を除くことは、そういう人から自分の身を護ることでもあるし、そういう人に対して餌を与えない優しさにもなると思う。
他人に自分を明け渡す前に、自分で自分を助けてあげてほしい。
わたしはここにいてもいい。文句を言っていい、嘆いていい、悲しんでいい、辛くていい。
笑わなくていい、怒っていい、泣いていい。
自分で自分に許してあげよう。