風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

比べない人生を歩きたい

やっとクーラーを入れて、部屋を涼しくしてから寝た。

ぐっすり眠れた。

 

わたしはよく「頭で考えすぎ」と言われるけれど

考えすぎてたらこんな人生にはなってないんじゃないかと思ったりする。

そういう分析をする人は

たいてい、私のはちゃめちゃな部分を知らないから

そういうのだろうが

わざわざ離婚して、息子たちを手放して、なんの得があるというのかと

聞いてみたい気がする。

 

自分が大切にするコト「だけ」はわかっていて

それは自分の不快感に従うということだ。

不快な人や場所は頭で考えて我慢できるものではない。

 

幸せについて考えてみる。

昨日も書いたけど

プライドが高すぎるから幸せになれないだろうと言われたこともあるが

プライドと幸せの間には、なんの関係もない。

関係があると思っているのは、そのアドバイスをした人の頭の中だけであって

それは事実ではない。

 

理想もプライドも、高い低いの判定を勝手にされて

迷惑なことである。

 

ジャッジしないと豪語している人ほど、魂やプライドや自尊心やいろんなものに高低差をつけて楽しんでいる気がする。

 

ある人が「仕事が思い通りになってきた人は、育児という思い通りにならないことがさぞつらいことであろう。わたしは、思い通りにならないのが当たり前だからちっとも辛くないわ、ははん」というような意見を述べているのを見た。

この考え方を支持する人が多いことからも

日本人の「できる人への底知れぬ憎悪」を感じる。

 

仕事ができる人で、育児が楽しい人もめっちゃいると思うけど

そういうのは「ありえない、仕事ができる人は育児が辛くあって欲しい」っていう感じ?

 

だって、頭がいい人や仕事ができる人ってのは

「どれだけのハプニングを切り抜けたか」を楽しめる人でもあるんだよ。

育児のハプニングをプラスに変えることなんて簡単だと思う。

 

そこまで見抜けない、つまり「仕事を思い通りにできている人」というざっくりしたその人の中の「分類」の前提そのものがおかしい。

 

だから、そういう比べ方をしないほうが、わたしはいいのではないかと思う。

育児が大変かどうかなんてしょせんガチャに過ぎない。

その時の経済状況、実家の状況、子どもの状態、配偶者の状態、地域の状況、等々

たくさんのluckyがなければ、しんどくなるのは普通のことである。

 

「仕事や勉強ができる人に嫌な思いをさせられてきたけど、ほら、あの人だって育児苦労してるじゃん、わたしは、いつも嫌な思いをしてきたから育児なんて楽勝なんだよ」みたいな言い方をしなきゃ自分を肯定できないなんて悲しくないか。

 

結局、自分が比べてきた人たちと同じ土俵で語っていることであることに、早く気付いたほうがいい。

 

私もさんざん「モテる人」と自分との差異について悩んできたから

そこはわからないでもない。

 

だけど、結局は自分の在り方でしかないし、自分が見てるほど「羨ましかった人」はたいしたことがなかったかもしれない。

 

人には「自分にしかできないこと」があり「自分にしか惚れない相手」がいるのだということに、早く気付いたほうが楽である。

 

私にとって、モテる女性は今や、私が向上するためのお手本であって

羨ましがる相手ではない。

だって、私が好きな人とその人が好きな人は違うし、その人にない魅力が私には間違いなくあるとわかるからだ。

 

結婚できた、育児が楽だ、いいじゃないですか。

それは自分だけの喜びです。

誰かと比べて「あの人はこうだから育児を楽しめなくてかわいそう」とか言っちゃあおしまいよ。

 

「結婚できないのはさあ、あの人は○○だからなんだよね」とか言った瞬間にその人が結婚して本当に幸せなのかどうか怪しまれることになる。

 

人生は流れなのだから、一瞬がうまくいったように見えても

その先は誰にもわからない。

そして、うまくいってない瞬間があったとしても

それは続かない。

 

「わたしは○○だからダメなんだ」と思い込んでしまったら

抜け出すのは難しいから

「○○だから大丈夫」という言い換えを無理やりやってでも

その呪いから抜け出してほしい。

 

日本人は極端さを嫌う。

中庸でありたいと願い、中立な自分を演出し、「どっちでもいいと思う」と豪語する。

その割に、世論の強い方に流されている自覚がない。

まったく中立ではないんだけどね。

 

突出した人を嫌うのは人間の性だとは思うけど

自分の「自信のなさ」「誰かと一緒でいたい」という気持ちから

誰かや何かを非難するのはあまり得策ではないし

何やいうて、自分の首を絞めることになるかもしれない。

 

同一化することが日本人の望みであるような仏教の取り入れ方を見ても

「穏やかに生きること」「平凡を一番と思うこと」みたいなね

平凡でいられない人たちを、これほど追い詰めようとする国民性はすごいと思う。

 

自分自身が穏やかでいるためにその考え方でいることと

「尖った人に対して、尖らないように説教して自分を安心させる」のは

まったく別の話だ。

 

自分が穏やかになるのはかまわないが、他人を穏やかにさせたいと思ったら

それはもう・・・・・・である。

 

すべては自分のために。

 

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今は土日の八坂神社もこんな感じ