それはライフハックなのかありのままなのか
夜のドライブが気持ちいい季節です。
窓を全開にして風に当たりながら
流れてくる音楽に合わせて
大声で歌う。
夜中だから車も少ない。
誰も聞いちゃいない。
ほとんどの車はエアコンをして窓を閉めてるんだから。
久々に図書館に行った。
土曜なのに閑散としていた。
自習する椅子が撤去されているせいかもしれない。
予約の本を取った後、書架を彷徨って2,3冊借りて帰った。
予約した本より、今日目についた本のほうを読みたくなる。
わたしは最近、小説を読まない。
なぜかというと、小説の当たり外れがひどくなってきたからでもある。
あまりにも常識にまみれて、ハッピーエンドにこだわったり、そのハッピーエンドがいかにも「社会が好きそうなもの」になっていたりして。つまらない。
それに対して、対談集や評伝などは、個人がたくさん出てくる。つまり、たくさんの価値観が書かれているため、退屈することがない。
なんていうか、社会はこうだから、この社会に従うように行動するのが普通、みたいなものを前提とした小説が増えた気がする。勝手な想像だけど。
それは漫画でも同じ。
たまたま家にあった大島弓子の漫画を読み返してみた。
あまりの完成度の高さに驚いた。
というより、昔はこれが漫画だった。
今のイラストレーターなのか漫画家なのかわからない人が書いてるのを漫画と称しているのはどうなんだと思えるほどである。
そこには、素敵な洋館と素敵な紳士を含む家族が描かれているのだが
内容はとても深刻である。
心の問題が取り上げられていて、登場人物は最終的に火事を起こしたりする。
絵が美しくなければグロテスクな物語になるのは間違いない。
今のコミックって、毒親だからって角をはやしてみたり
目を三角にして怒ってることをそのまんま描いたり
なんていうか、子どもっぽいものが多い。
その人の体験をそのまま書くだけなんて美しくないではないか。
小説であろうが漫画であろうが、その人の複雑な思いを、いかに深く深く掘り下げて
まるでどこか別の国で起きているようなものとして描きながら
読んでいる者に伝わる、というのが「読む醍醐味」ではないのか。
何も咀嚼せずにただ、ありのままを垂れ流して「ほら見て!」っていうのって
まるで幼稚園で子どもが先生に「見て見て!」って言ってるのと変わりない。
たしかに、本を読めなくなった、意味を読み取れなくなった日本人には
ダイレクトに伝わる絵柄のほうが今は受けるのかもしれないが
おかげでますます、幼稚になっていることは間違いない。
わたしは、その点で、さ〇らももことか、さい〇らりえこの漫画は大嫌いである。
こんなこと思ってる人はなかなか口に出さないかもだけど。
大島弓子さんにしても、竹宮恵子さんにしても、山岸涼子さんにしても
絵の素晴らしさと、そこに描かれている「家族の在り方への問題提起」は見事に両立されている。
わたしが、毒親だとかいう言葉の前から、家族関係の問題に深く入っていたのは、これらのコミックだったのかもしれない。
竹宮恵子さんの「地球へ・・・」という映画にもなったコミックは
SFのテイを取りながら、家族すら管理しようとした未来の社会を描いていた。
親とは?子どもとは?と考えさせられる内容だった。人によってはミュータントというところにしか目がいかない人もいたかもしれないが。あれは親子戦争を人類対新人類として描いたものだと私は考えている。
いつの間に、日本では、自分が嫌いな人たちならどんなふうにでも描いていいみたいな国になったんだろうな。あ、なんとかよしのりとかいう人の人物を叫ばせてるのが流行ったあたりからだろうか。あれのどこがいいのか、読み物としても思想としても全く共感できないんだけどな。
その点では、最近では「ちはやふる」がよい。
読んでいるうちに、百人一首の競技をしている個人個人の内面が描かれるようになっている。恵まれているのに孤独なものもいれば、友達に恵まれてても競技に勝てなくて悩むものもいれば、姉妹で差をつけられて育てられるという境遇も描かれていて
久しぶりに読後感が充実して楽しかった。
思春期にどんなものに触れるかで人生は変わってくる。
わたしは良質の漫画に出会って感性が磨かれたと思うし
その後の自分の身の振り方を考えるきっかけになった。
お金というものは、小学生でも商才があれば儲けることができるんだろうと思う。
だけど、人間的成熟は、全く違うベクトルにある。
内面を成長させないまま、お金儲けだけに長けた人が活躍する日本になった。