輪郭
仕事の件を「自転車の練習のようなもの」と言ってくれた人がいた。
確かにそうだと思う。
やってみなけりゃわからない。
どこで自分の力を出して、どこで抑えるか。
しかも、上司に忖度せず、DVまがいの相手には屈せず。
私がやりたいのは、そういうことであって
「世間的にうまくやってストレスを溜める」ことではない。
ストレスを溜めながら働いている人によく見られるのは
結局「わたしはストレスを抱えられるいい人です」のアピール。
だから、いつも、誰かに決めてもらいたがるし
誰かのせいにして生きてる。
ストレスを被ってる日常が普通だと思い込もうとすれば
間違いなくそうなる。
自分はいつも犠牲者だ。
わたしはそれが嫌だから、どんなにハブされようが
「わたしってかわいそうなの」を周りに振りまくのは御免だと思った。
それが私のプライド。
専業主婦で「我慢しているの」風もそうだし
離婚して「大変なの」もそうだし
子どもが不登校で「しんどいの」もそうだ。
粛々と我慢さえしていれば、世間は自分を「かわいそうな人」と思ってくれる。
そのために、「我慢する」を選んでいる人は少なくないはずだ。
男になるともっと顕著で「我慢して働いている俺、偉い。ストレスは向こうから勝手にやってくるんだし、お前ら俺をかわいそうだと思え、俺のために我慢しとけ」と家族に我慢を強いるのだろう。
企業も役所も、「私かわいそう、でもがんばる!」って言う人が好きだ。
我慢しないための勉強や改善をする人は嫌いみたいだ。
そりゃそうだ、ストレスを与えている側なんだもん。
ストレスを感じないような努力をされたら、自分たちを否定されてる気になるんだろう。
私は、これから、そういう人や場所とどう付き合うかを学んでいくのだと思う。
「慈悲」や「愛」は、おそらく、自分がストレスへの耐性を強くするのではなくて
もっと上からの視線で、どう対処するかを求められることなのだ。
それは、自分自身が自分を肯定していなければできないのだと思う。
この仕事をするまでは、世間が怖かったし、自分を排除する人がいると思うと、自分を守るのに精いっぱいだった。
だけど、やりすぎるほどに自由にやってみて、世間は怖くなくなったし、自分の意見は言えるだけ言うし、それでも慕ってくれる人は減らない上に、増えていくものだと知った。
今回も、私が不合格になったことでショックを受ける人が何人もいることがわかっている。その人たちには申し訳ないことをした。
身体がマックスにしんどい時に、職場でボロボロになるほどの圧力を受けて
こっちもキレるでまじで!っていう状況でキレた結果がこれだからな~。
もう過去の自分を責めてはいないし、「やっちまったな」ぐらいに思ってる。
その経験が次に生きるわけで、自分を大事にしていれば私は大丈夫だと思える。
断ったり意見を言うことが悪ではない。
自分の身を守れる「言い方」を身に着けることだ。
そこに我慢は必要ない。
ドラマや小説で「ウィンウィン」ってあるけど
あれは見ていて、どちらかが引いてるように見えるものもあるし
あんまり上手に描いていない気がする。
本当のウィンウィンって、日本にないんじゃないかな~。
テクニックとしてそうしているだけで、納得してないのにそう見せてるだけで。
納得してたら後で、陰で、あーだこーだ言う必要ないものね。
練習、練習。
恋も仕事も今はそういう期間みたい。
感情だけに振り回されることなく、自分の中にある大切なものを守りつつ
育てている気がする。
九九を覚えている時も、ピアノを練習している時も
上手くいかない時はつまらないものだけど
舞台で失敗して恥かいたりするけれど
そのうちうまくなるんだよ。
人生にはそういう時期がある。