まずは自分なんだな
こんばんは。
気持ちのいいお天気でしたね!
ちょっとドライブ行ってきました。
ぼーっと色々考えるのにいい時間です。
車を運転している時って。
カフェに行くとついついスマホを見てしまうので(笑)
でね。
他人をコントロールしてしまう癖について考えてました。
気を付けているつもりでも、「こうあって欲しい」が根底にあって苦しくなることはままあります。
アドバイスする側になれば、自分のことを棚に上げてなんぼでも言えますけれど。
「相手はロボットじゃないんだから」という言葉を言われたことがあって
ちょっと引っかかってました。
いや、そうはいっても、相手だって私を思い通りにさせたがってるやんって。
思い返せば、家庭でも学校でも、私たちはロボットのように「指示に従う」ことを「評価」されてきました。
その癖がすぐに消えてしまうわけがない。
そして、それは常識となって、気づけない問題になっているのだろうなと思うのです。
自分がロボットであることによって生き延びてきたのに
どうして他人から今更、他人をロボットだと思うから辛いんだよ、とか言われなきゃならないんだろうね、ということに至ったんです。
つまり、自分自身を、「ロボットのように反応しない自分でも愛される」と、とことん思えなければ、他人に対する期待を外すことはないだろうということです。
卵が先か、鶏が先か、ということもありますけれども。
相手を喜ばせようとする自分、相手が期待している「であろう」自分になろうとする自分、をまずは許してから手放すこと。
そこからだなあと。
私の場合、どんなに要求しても応えてくれない親がいたからこそ
自分の要求を優先させても罰は当たらないだろうと思ったんですけど
それでもやっぱり親の愛が欲しくて、「私が期待に添えなかったからこんなことに」という罪悪感が残りまくり
その結果として、好きなようにふるまうけれど、相手の期待を察知する能力だけが発達してしまった。
だから、好きだなあと思う人に対して、自分がその人のロボットであることを望む傾向がありました。自分らしくいることを、相手によっては封印するという手段を使わずにはいられませんでした。
なので、相手にもそういう態度を求めることはありましたね。
それを手放すってことは、愛を求められないことと同じこと、だと思い込んでいて、とてもしんどかったです。
色々なことを学んで、やっと、「人はそれだけで完全である」ことが腑に落ちてきました。優しさとか思いやりとか全部取っ払っても、人は完全な存在なのです。
その立ち位置から見る景色によると、相手の反応はどうでもよい。
ということになります。
それもこれも、たくさんの人と絡んできたからこそわかったことなんですけれど。
善人でなければ許されないと思っていると
誰にでも善人であるように求めてしまうし
そこに評価基準を置いてしまい
自分を苦しめることにもつながりかねません。
まずは「わたしはロボットでなくていい」という宣言からです。
行き過ぎても、何があっても、貫いてみる。
そのうちに、世界は変わり、振る舞いが変わり、現実も変わるのかもしれませんね。
ほんの数%のことを信じてみる。そこから始める。
明日は節分。
節分の前から、節分に絡めて巻き寿司必死で売ってるけど
なんで?誰か教えて~~~節分前に食べないでしょ?