関係性というもの
わたしほど、多くの人とプライベートや仕事で出会った人間もいないのではないかと思う。不特定多数を相手にしている作家や芸能人は別枠。
たくさんの人にお金と引き換えに話を聞いてもらい
また、無料で人の話を聞いてきた。
その中で、私が思ってきたことが、このnoteに書かれていて驚いた。
学校で、現実ではほとんど機能していない民主主義という言葉を教えられ
なぜか教師も人間だ、生徒児童と対等であり、自分の感情の赴くままに子どもたちに暴言暴力をふるってもいいはずだ、という理論がまかり通っているのはわかるだろうか。
親子もそうだね。
親子や学校でもそうなのだから、友達なんだから対等だろう、というのが錯覚であることに気づける人はとても少ないと思う。
対人援助職の一部のとても勉強している人たちだけが理解しているような印象を私は持っている。
自分の発言がどういう影響を及ぼすのかに対して無自覚な人間が
セミナーやったりグループを作って人を囲い込むのはとても危険だと
私は思うし、それがカルトの始まりだとも思う。
だから、そういう場所や人にはできるだけ近づかないように、私はするし
出会ってしまったら即座に逃げることにしている。
学校で教師が、クラスメイトのひとりを名指しして「あなたのことは嫌いです」と言ったらどうだろう。クラス全員の意識にそれは残るだろう。
そういう教師のことを評価するかしないかはひとりひとりの価値観であると思う。
そして、「大人同士だし、私だって人間だから」とグループ内の人間を貶める人が講師をやってたりするのが今の、セミナー業界あるあるだと私は思っている。
支援したいのか、それとも自分の権力を見せつけたいのか。
もっと素直に「権力大好きです、嫌いな人間は貶めます」って言って始めれば素直でいいと思うんだけどな。案外、そこまで言えたら私はその人を好きになりそうだ(笑)
あいまいで、ふやふやした言葉で人をけむに巻いて
権力大好きなのが透けて見えるより、ずっと。
そのあたり、アメリカの「はっきりした人」対「はっきりした人」というわかりやすい図は、悲劇もあるが、嘘はない気がする。
「わかってあげなよ」みたいなことを言う人はいない。
だってはっきり主張があるんだもん。わかるよね、誰にでも。それが本当の正直なんじゃないだろうか。
そして、そこから生まれた「いいもの」は、嘘偽りのない「いいもの」になると私は想像する。
「わたしたち、対等だよね~お友達だよね~親子だからね~」というべたべたした、良いも悪いもあいまいにしてしまう関係性って苦手なんだな。
それってその関係性で傷ついたものに非があることになるからね。
「会う」ことにそれほど執着ないです。わたし。
会うことで磨かれることたくさんあるけど、無理することもないかなと。
自分を大切に思える時間を増やすことに今は、専念しています。
あらゆる関係性は非対称である。これが前提だ。言い換えるなら、非対称性が想定されない場所には関係性も生まれない。そう、「対等な関係性」などは、誰かの政治的夢想の中にしか存在しない。どんな関係性にも上下関係、支配関係が埋め込まれている。相互承認を「主と奴の弁証法」に結びつけたヘーゲルを持ち出すまでもない。本当は専門用語で「攻め×受け」と言いたい。BL界隈の言葉ではあるが、私は真剣に、ここにこそ関係性の本質があると考えている。あらゆる関係は——そして対話は——「攻め×受け」なしには成立しない。